価格競争の果て
過去10年以上にわたって日本の証券業界は個人投資家に対してネットで取引できるツールの開発にしのぎを削り、それをきわめて安価なコストで提供することに血道をあげた。それにより、株式投資はより身近なものになり、株といえばおじ(い)さんおば(あ)さんが昼間っから証券会社の店頭サロンで電子掲示板を見ながらカウンターの営業ウーマンに「あれを10口買って」とかの注文を楽しそうに、時にまた悲しそうに出すという光景が影をひそめ、今や20代からお年寄りまで、ネットで、携帯で取引する時代になった。しかし誰でもいつでもいくらでもお気軽に取引できる環境が整ったら、市場がこの調子である(この原稿を遂行している今、アベノミクス口先効果により結構息を吹き返しているが)。
結局道具はいいものを渡したのに、そもそもその道具を使って何をするかの「何」の魅力がなくなってしまった。以下そんな話を友人としたことから思い立った話である。
確かかつてこのコラムで言及したと思うが、証券会社がもらう手数料はリスクに対するバッファーの意味合いがある。システムコストがいくらで人件費がいくらだからこの手数料でとそろばんをはじくコストビルディング的な考え方と、次元を変えて「抱えるリスクの面」からどれくらいのスピードで利潤を上げていけばいつ実現するかわからないディフォルトリスクに「見合う」か、という考え方から適正な手数料とはいくらかを計算する考え方があるのではないだろうか(※)。本来必要証拠金を下げるならその代りに売買手数料は上がるものなのだといえば、言っている意味が分かりやすいだろうか。
かつての証券会社はそういう意味でリスクに対する分厚い対価をもらいせっせせっせと内部留保を積み上げてきたように見える。だから現在営業赤字を出す証券会社でもバランスシートを見ると結構な内部留保が残っているところが多い。最近は月に3社ペースぐらいで廃業しているという話を聞いたことがあるが(本当かどうかは知らない)、それとて倒産するのではなく、先代の残した資産を食いつぶす前に引退する形での廃業が多いのだろうと思う。
※この辺の概念についてはCredit Value Adjustment (CVA)について書かれた本を読むと、難しいけれどなんとなくわかる。私の手元にはたまたま同僚が貸してくれた、金融財政事情研究会出版、富安弘毅氏著の「カウンターパーティリスクマネジメント」に詳しく書いてある。
今や業界の構図は、「それを食いつぶしていくしかない昔ながらの証券会社」 VS 「ネオ系でそうした先代の資産はないが、既存のコスト体質とは無縁に足軽にかつ機動的にIT技術を駆使しながら同じ手数料競争を勝ち抜いている証券会社」、という構図が見える。後者ネオ系の彼らは証券も他のビジネス同様の金儲けの一つとして見ているように見える。ビデオを売ったり、ネット通販したり、ポータルビジネスしたり、なんでもありで、その一つとして証券がある。一方既存の証券会社は、株を売る、投信を売る、資産運用・管理をする、という視点・価値観からぶれることがない。通販やシステム会社から金融へとコングロマリット化しても、金融からネット通販にコングロマリット化していかない。まさにこの非双方向性が勝敗を分けているとは言えまいか。
インターネットというチャンネルに乗った瞬間それがなんであるかは今の時代を生きる人たちにとってはいい意味でなんら頓着がない。電子的に扱えるものでそれに付加価値があり、売れるなら何でも売る、という発想があるのは自然なことである。新たな世代が過去の常識や価値観にこだわらず柔軟に異端児的に市場を攻めてくるのは結構なことなのだろうが、それでも最低限持っていてほしいというものはある。
今の時代、なんでもかんでも安さを追求する結果、そもそも絶対的な価値とは何かを考えることすらやめてしまったような気がしている。安さの追求がサービスの質の低下を招くならいずれその商品はそっぽを向かれるのだろうが、大問題なのは、消費者や投資家自身がそうした質の低下や、違いが判らなくなってしまえば、そのような反応すら生まれなくなるということである。アメリカのスーパーで食材を買っているときによく思ったことでもある、「安いからってこの食材を喜んで俺は買えないな」と。
買う側の目利きが問われる時代なのだろうが、金融は目に見えず、触れない分厄介である。