変わりゆく取引所
伝統的な取引所取引の原則はあらゆる投資家が平等に、取引所のオーダーブック上にオーダーを置くことができ、取引所はそのオーダーを平等に時間と価格優先原則にのっとって約定を執行し、決済リスクはすべて取引所(もしくはクリアリングハウス)の名を持ってそれを負う、というものだったのだが、90年代からデリバティブに手を出し始めると、その流動性の確保のためにマーケットメイカー制を取り始める。この場合、マーケットメイカーであってもオーダーブック上での扱いに特別待遇がなければ依然伝統的な取引所取引たりえるのだが、ここで、顧客のオーダーをマーケットメイカーのプライスにぶつけることしかしないというある種の特権をマーケットメイカー側に与えた瞬間から、伝統的な取引所取引ではなくなった。これはいわば、取引の側面においては「取引所で行われる店頭取引」と定義することができる。取引所はあくまでも店頭取引のための場所の提供とその決済にかかわるリスクを負うという役割だけは引き受けるが、顧客同士が打ち合うということは許さず、あくまでもプロとしてのマーケットメイカー対その他顧客という片務的な扱いを押し通す。
これにより、常にプライスを出し続けるという過酷な義務をMMに課す代わりにすべての投資家からのインタレストを吸収する権利を与えたことになる。MM側にしてみればこれと同じことは店頭FXの業者にプライスを与えることでも果たされる。前者は手数料をMMからも徴収することがあるが、後者においては皆無である。MMにしてみれば取引所と付き合う方がコスト高であることは否めない。
取引所の魅力は、その上場商品が世界中でそこでしか取引されていないという点が第一である。つまり完全一物一価の法則が成り立つことである。第二に、約定における注文の扱いが平等であること。第三に、そこでの取引が透明であること。透明とは、ここではいかなる取引(価格、数量、買われたか、売られたか)が行われたかの情報が開示されること。さらに板が見えること。第四に、清算のリスクを取引所もしくはその清算機関が負ってくれることである。MM制度を取り入れると第二の魅力が消える。さらに店頭市場ですでに十分な流動性がある市場にあえて参入すると第一の魅力も消える。つまり透明性と清算リスクを負うという点だけが残る。
だんだんと取引所が店頭化しつつあるという気がするのである。一つには取引所が利潤追求の企業として古典的な商品だけでは生き辛い環境にあるということがその一因だが、それは、IT革命後の宿命ともいえる。そもそも透明性と公平性、そして与信リスクからの安全性を確保するべく生まれた取引所だが、IT革命と金融革命によってそれらの機能が取引除外でも提供できるようになってしまったということである。そうなると物事進化の何事につけても集中と分散の過程が交互にやってくることを前提是とするなら、この流れも自然の摂理の一部ではないかという気がする。IT化によって、取引の質がどんどんと小口化し、逆に総量的に巨大化するにつけ、既存のアナログ的な取引所はフロアトレーダーを切るという血を流しながら無人システム化を行った。その後そのシステムを維持、改良し、時代にあわせるための最適化に膨大なコストをかけ世の中の流れについていこうと必死になるのだが、それ自体が自分自身を苦しめてゆくことにもなった。その結果がNYSEとドイツBoerseの合併の話にも象徴されるように国内の取引所統合ではもうすまされないレベルまで合理化と国際化が求められるようになっているのである。
物理的に取引所という建物に情報が集中するという他がマネできない環境から、そういう情報集中をしたければ今やサーバーという物理的インフラさえあればそれは世界中のどこからでもアクセスできるようになると、誰でも取引所みたいなサービスを提供できるようになる。法的な裏付けとお墨付きがない分完全に取引所にはなれないが、それに近いところまではいける。逆に取引所も本来の冒頭で述べた伝統的な価値というものを保守する姿勢を出す風でもなく、どんどんと川下に水が流れるかの如く、ちまたでデリバティブを扱う金融機関がじゃぶじゃぶとお金を吸い上げるのを見て、ならば私もと思いきって取引所の本源的な価値の条件を打ち捨てて店頭のコピー商品を上場させてきたというのがここ10年ばかりの流れではないか。
最終的に取引所と店頭はある点で融合してゆくものであるとは考えられないだろうか。いまは法的に「取引所とは」と定義されている分、線引きはたやすいが、使う側からしてみた場合の有意義な差異というものがどこに求めうるだろうか、という点で私の興味はつきない。
今後取引所は成長するのか、あるいは衰退するのか、どっちだろうか。これはなにも日本だけの話ではない。世界的にどうなるかという話である。海外の取引所合併の話にしても必ずしも経済合理性とか生き残り戦略とかいう、きれいな理由だけでなく、そこにはポスト争奪戦みたいなドロドロした理由も引力として働いているだろう。