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尾関高のFXダイアリー

就活に苦しんでいる学生諸君に捧ぐ

たまにはこういう話もありかなと・・・


【その一:帰国・就活】


 1991年から日本で通貨オプションのブローカーを5年近くしたあと、シンガポールに移って同じ仕事を2年していたのだが、当時の日本は銀行がどんどん消えていき、不景気のどん底が見え始め、私自身もいつまでもこの商売ではやっていけないなと腹をくくった。なんとかなるさで会社を辞め、シンガポールから帰国した1997年秋、待っていたのは拓銀の破たんと、山一証券の倒産だった。当時、34歳だった私にとって、日本経済が不景気であっても仕事は見つかるだろうという根拠のない、淡い期待があったのだが、その後の就職活動でその期待は徹底的に打ち砕かれることになる。


帰国して、まずはウィークリーマンションに移り住み、家探しから始めたのだが、なんと定職を持たないという理由でどこも貸してくれず、頭金を2年分払うといっても駄目という現実に愕然とする。東京に住む妻の親類に保証人になってもらっても、定職がないという理由で断られ続けた。早くしないと、通関できずに止められている家財の賃貸料がかさんでしまうじゃないか、と思ってもどうにもならない。

職がなければ家も借りられないという常識もなかった自分に自嘲しながらも、仕方がないのでウィークリーマンションにしばらく住み続けることを決意し、人材紹介会社に登録して、就職活動を開始した。ところが、受けても、受けても2次面接にすらいけない始末。2次面接まで進んでも、結局相手の暇つぶしのカモになっただけであった。最初は金融に絞って会社を回っていたのだが、だんだんと間口を広げ、最後には電子メーカーやら、教育関係やら、○○商会やら、手当たり次第、紹介会社が勧めるままに面接を受けに行った。しかしことごとく不発に終わった。記憶が薄いが最終的に15社ぐらい回っただろうか。全部アウトだった。

金融関係に行くと必ず言われたのが、山一さんの元社員の方々がたくさん面接に来られていますので、なかなか難しいですねえ、である。元山一社員を追い抜くことができない。ちなみに、のちにその元山一社員とともに働くことになる。むろん何の恨みもない。


【その二:面接】


 仕方がないので、人材紹介から派遣に切り替えて金融を回ったほうがいいという紹介会社の勧めでそうすることにした。ここまでに帰国して3カ月がたっていた。3か月間ウィークリーマンションに暮すのは結構苛酷であることを実感した。おまけに、だんだん貯金も減っていくし、毎日外食ばかりで嫌気は差すし、毎回面接に行くたびに、なぜこの会社を希望されたのですかと聞かれることにうんざりしていた。そもそも、職がないから回っているのである。働きながらの転職探しではない。こっちは金を稼ぐために、さらに家を借りるための社会的最低限のステータスを得るために仕事を探しているのである。そういう人間に向かって、なぜこの会社を希望されたのですか、などと悠長にかつ紳士的に聞かれても困るのである。募集したのはあんたでしょうが、と言いたくなるのである。面接行脚の最後のほうになると、そういう質問に腹が立つようになってきた。一度は、面と向かって、「理由などない。紹介会社が勧めたから来たのである。現在職のない私にとってこの会社がどうだ、こうだという甘えた希望などない。私という人間をみて、職歴を見て、そちらが使えるかどうかを判断してもらえればいい。私はどんな仕事でもやりこなす自信はある」というようなことを言い始めた。当然、採用されるどころか、次の面接にすらいけない。ここまでくるとやけくそ、支離滅裂、自暴自棄である。


ここで世の会社の採用担当者様に申し上げたい。「なぜわが社を希望したのですか」という質問は、失業率が2%以下の景気のときにしかしないでほしい。失業率が自然失業率を上回るときは、「お宅が求人しているからです」、「なんでもやります」、「そこに求人があるからです」が答えである。需要が供給を上回る市場で欲張ったことなど言えないのである。何がしたいかは、まずおまんまと寝床を確保してから考える贅沢な話なのである。今のご時世、採用側は、当社が求めるのはこういう能力がある人ですが、さてあなたにはそういう能力があるかな、ということだけで十分である。使ってみなけりゃわからない。

 私は経験上、自分のそういう眼力には全く自信はない。相手をある程度知ったのちであれば、ある程度の精度をもって識別する自信はあるが、数十分会って話しただけで持った印象がそのまま正解!となったことはない。いいほうにも、悪いほうにも傾いた。なので、自分の第一印象は一切信用しない。一番いいのは、3か月とかの試用期間を経てよければ本採用、である。採用側にもクーリングオフはほしい。使ってみて、はじめてわかる良さ悪さ、なのだ。


【その三:転んで堕ちる】


 こういう状況(つまりどん底)に陥ると、人間心のあさましさが見てくれにも出てくるようになるもので、一度、面接の前に紹介会社に行った時には、アメリカ人のスタッフに、行く前に顔を洗ってヒゲ、剃ったほうがいいですよ、と言われたりした。人に言われないとそういうことすら気がつかなくなるほど、精神的に追い詰められていたのである。いまだにそのアメリカ人の私を馬鹿にしたような目つきは脳裏に焼き付いている。別に、彼が悪いわけではない。むしろ親切心でそう言ってくれたのだと今でも思うが、多分、そこまで“落ちた”と感じた、崩壊する自尊心が、そのときのワンシーンをそんな風にゆがめたまま記憶から離さないのだと思う。


そんなある日、面接もなく何気なく、歩いていてガードレールを飛び越えようとしたとき、体がなまっていたせいか、飛び越えたつもりが飛び越えておらず足のむこうずねを引っ掛け転倒、運悪く、道路側に転び、その直前に車が通り過ぎていた。一歩間違えばあの車に頭を轢かれていたな、と思った時、なぜ轢かれなかったのだろうと本気で思った。そこまで追い詰められていた。ちなみにその時のむこうずねの傷はかすかだがうっすらまだ残っている。

毎日毎日面接に行き、同じ質問をされ、同じ答えをし、同じ的外れな質問に身勝手この上ないが、はらわたを煮え繰り返し、虚無感を抱えて畳3枚分のウィークリーマンションに帰り、近所の中華屋で晩飯を食い、溜息をつき、ただ無気力にテレビを見ながら眠りにつく生活を繰り返すとこうなるのかと、ただただ情けない気持ちでいっぱいであった。その時の中華屋さん、まだやっているのだろうか。一度、常連となったよしみか、中華屋なのに、タダで煮物をだしてくれたことがあった。冬の外の舗道には雪がのこり、店の中にこもる蒸気と、油ののったマンガ雑誌が印象に残る。
 
いまだ、忘れない。1998年元旦の朝、この新年に何の期待も抱けない感覚というものがどういう風に心の中をかき乱すのか、こういう経験をした人でないとわからないものなのだとつくづく思ったのである。面接もなく暇な日は、妻と一緒に街をぶらついたり、バッティングセンターで体を動かしたりして、時間をつぶすのだが、それにも限界というものがある。34歳で、何をやっているんだ、というむなしさが最大濃度レベルの放射能となって私の心を蝕んでいた。道で通勤する背広姿のサラリーマンとすれ違うたびに何か自分が悪い存在であるかのような卑屈な感覚が、電波となって私の体から放出され、それがすれ違う相手に気づかれるのを恐れていたような記憶がある。

このとき、日本のサッカーが盛り上がっていた。そのことは何となく覚えている。普段ならさほど興奮もしなかっただろうが、そういう心境の私には、頑張る日本サッカーが何となく励みになったというよりは、ひと時現実を忘れさせてくれる存在だった。カズやラモスには感謝している。気晴らしをしてくれてありがとう。


【その四:派遣】


 この時、妻はすでに派遣の仕事を見つけて証券会社で仕事をしていた。私はいまだに仕事が見つからずで、貯金はあるものの、毎朝仕事に出る妻を見送りながら、さて、今日は何をしようか、と考えながら結局近所の図書館へ新聞を読みに行ったりする程度のことしかできなかった。そして焦って、何を血迷ったか、アメリカの会計士の資格を取ろうと考えた。新橋の講習会に行った。だが、すぐ気がついた。これはないな、と。授業料を払う前に気がついてよかった。私に「資格」は似合わない。


結局、派遣で金融の仕事についた。派遣といっても時給はよかった。月に30万円ぐらいになった。シンガポールの時の給料に比べるべくもなかったが、ないよりましだった。住む場所はこの時、仕事がなくても借りられる物件をたまたま入った不動産屋が紹介してくれて、そこに移り住むことができた。葛飾区で、家賃14万円だったと思う。税関でながながとお泊まりしていた家財道具をやっと借りた賃貸マンションに運び込んだ。家財道具の宿泊代、20万円ぐらいかかったのではと記憶している。かくして妻も私も派遣社員という共稼ぎの生活が始まった。とりあえずは社会からはみ出しているという疎外感はなくなった。

私の派遣の仕事は、金融といってもひたすらデータをパソコンに打ち込むだけの仕事で、とても面白いというものではなかった。しかし私の上司(女性だった)は面白かった。まわりのスタッフもいい人たちだったが、私の部署の隣で働く男性陣の目線がいつも気になった。いい歳して派遣やってる図体のでかいヤツとでも思われていたかもしれない。実際彼らがどう思っていたかは知る由もないが、つまりそう思う自分が嫌であった。カッコよく仕事している彼らがうらやましかったのだ。いつまでこんなことをするのだろうと思いながらも他にないのだから仕方がない。風が吹くのを待つしかない。同じ仕事にもう一人派遣の女性が来ていた。もともとはJALのスッチーだったというではないか。世の中変わってきたなと思った。ほんとうなら、1年はこの派遣の仕事をするはずだったのだが、のちに無理をいって辞めさせてもらうことになる。本当に申し訳なかったとこの場を借りて改めてお詫びしたい。


【その五:転機】


 1998年春。転機の年が来た。風が吹いたのである。待ちに待った風が吹いたのである。その春、為替の取引が解禁されているという噂を耳にした。あるいは新聞で読んだのかもしれない。記憶がない。実は、シンガポールにいるときに為替の証拠金取引を日本でできないかと考えたが外為法が邪魔でできなかった。それが解禁されると知った。ならば、これはビジネスチャンスではないか。当時、帰国前に(その後も多少)シンガポールで証拠金取引を自分でやっていただけに、これはいけるという確信はあった。しかし、私には当時自分で資金を出して会社を興すだけの知識も勇気も、発想すらなかった。今でこそ、社会的に認知された商品だが、当時は色もの以外何も出もなく、たとえ私が自分で事業として起こそうとして銀行や資本家(当時そんな金持ちの知り合いはいない)に持ちかけても誰もお金は貸さなかっただろう。


そこで、証拠金取引といえば、日本では唯一、商品先物会社だと思った。証券会社でも先物(日経225)はあったが、こういう色ものを扱うとは思えなかった。どうなるかもわからない商品に手をだす可能性としてはやはり商品先物だった。しかし私でもその業界のイメージは一般の人と同じくらいのものは持ち合わせていたので、かなり抵抗感はあったのだが、シンガポール時代の同業の知り合いがD社に入って、国際事業部で働いているという情報だけをなぜが覚えており、その記憶とたまたま手に取った新聞の広告欄にD社のファンドの宣伝広告が結びついたのである。ちなみにそのファンドの名前は「ビッグバン」(だったかな)。そこで私は、履歴書をD社に送った。求人広告ではなかったが、私に迷いはなかった。私のビッグバンよ、やってこい!である。


しばらくして、会社の人事から電話があった。ぜひ来いと。むろん私は出掛けた。が、やはり先物会社か、という気持ちを引きずっていた。そのまま面接に臨み、言いたいことをしゃべり、為替取引を始めるのなら私にお任せを、みたいなことをえらそうに話して、その日はなにもないだろうと思って腰をあげたら、後に私の上司となるM氏が、じゃあ、すぐ来てくれるかな、というではないか。派遣の仕事に未練はないが、ほんとに先物会社で働くのか、というとまどいがあった。しかしM氏の勢いというのがこれまたすごく、氏ののりに乗せられたまま、98年5月にはめでたく、正社員のステータスをこの会社で手にすることになるのである。決め手は、為替のビジネスを立ち上げさせてくれること、そしてM氏の風貌が、先物会社らしくなく垢ぬけていたことであった。その程度の判断材料しかなかったし、その程度でもすがる思いが私にはあった。今でもM氏に出会ったことに感謝している。これがコテコテの商品先物風味漂う味付けの人だったら逃げ出していたかもしれない。また、先物会社でもこの会社にコンタクトしたことは私にとっては僥倖であった。


【最後に】


 人生何度かこれが僥倖だと思える出来事があるものだと思う。一つの会社の面接で落とされるということは、他の会社の面接で合格することと同じ価値があるということが分かっていただけるだろうか。しかし、それはあくまでもあとから振り返ったときに感じるもので、その瞬間にはそういう感覚は襲ってこない。そういう機会は自分が常に「好奇心」を持ち続け、それに従い行動をし続ける「情熱」を絶やさないことで必ず生まれるものだと思う。就職活動中の学生諸君、大変だと思う。私などは引く手あまたのバブルに就職活動がかぶったのでどこにするかで悩んだが、どこも入れなくて悩んだことはない。しかし、そのつけは後に34歳にしてやってきたのである。22歳ならまだ守るものも少ないから気楽ではあるが、34歳になるとさすがに焦り方は半端ではない。どっちがいいか、神のみぞ知るであるけれど、今苦しむ以上、今22歳アラウンドの人には10年後にはいい思いができるような世の中であってもらいたいものだと切に願うばかりである。


プロフィール

尾関高

Takashi Ozeki

1986年名古屋大学経済学部卒業。1988年サンダーバード経営大学院(アリゾナ州、米国)卒業。主に日短エクスコにて約9年間、インターバンクの通貨オプションブローカーを経験し、1998年からひまわり証券(旧ダイワフューチャーズ)にて日本で最初に外国為替証拠金取引をシステム開発から立ち上げ、さらに、2006年5月に、これも日本で最初にCFDを開始した。
その後米国FX業者でのニューヨーク駐在や、帰国後日本のシステム会社勤務等をへて、現在は、日本の金融システム会社勤務。そのかたわら、本業のみならず、FXや新たな金融市場にかかわるさまざまな分野においても積極的に意見具申中。
拙著に、「マージンFX」(同友館、2001年2月)と「入門外国為替証拠金取引~取引の仕組みからトラブル防止まで~」(同友館、2004年6月)、また訳書「CFD完全ガイド」(同友館、2010年2月、著者:デイビッドノーマン)がある。

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