レバ25倍規制は本当に必要か(後編)
レバ規制25倍は本当に必要か
米国CFTCは当初10倍としようとしたが、結果的に50倍で決着した。FX業界のロビイングだけでなく、個人投資家からの数千にも及ぶパブコメの力で押し返した形である。ただしマイナー通貨は20倍としている。日本は最初から全通貨ペア25倍ありきで始めたが、その25倍の根拠は特に示されたとは言えない。平成21年6月1日当時の金融庁長官佐藤氏は基準として「為替得変動を勘案した水準」に触れてはいたが、だから25倍なのだという明快な基準は見たことはない。むしろFX業界から様々なデータが示され50倍でも十分ではないかという資料はいろいろ目にしたが、これに対する真っ向からの反論も目にしておらず、決まったことだからそうなった式の記憶しかない。
■25倍の前に50倍の効果検証はないのか
日本のレバ規制は、2段階式で現在50倍になっているが、2010年8月以降このレバ50倍規制で個人投資家のトラブル(投資家保護)はどれくらい解消(達成)されているかを考えるとき、(1)金融庁が、最終的にレバ25倍になると達成されると考える基準は何なのか、(2)そのレベルまで減っているかという検証は行われるのか、という2つのテーマが頭に浮かびはしまいか。
科学的な見方とことわった上での話だが、、せっかく50倍、25倍という段階を経るわけだから、病気に例えるなら、(1)効き目があるない、薬の良し悪しは、熱が37度以下に下がったどうか、発疹が消えたかどうか、というような具体的で客観的な、かつ検証可能な現象があるはずであり、そのうえで、(2)まずは50倍に薄めたワクチンの効果というものを検証し、それでも効き目が悪いのであれば次に25倍のワクチンを投与するというのが普通の考え方としてありうると思う。また、それら基準や経緯、結果は、患者に事前事後説明されるものである。もしそれらが行われ、たしかに25倍で達成すると思われた“当局として受容可能な”結果が50倍でも実現されたという認識が持てるなら、あえて25倍にする必要はないはずである。逆に、やはりまだ不足であるという結果であれば、そのまま25倍へと進むことになる。
50倍から25倍という“段階”を経るのであるから、その段階ごとの効果検証はありきであると考えるのが自然な発想である。ちなみにアメリカは50倍(ただしマイナーは20倍。余談だが、そもそも歴史的ボラティリティに大きな相違がある通貨ペアを全部ひとくくりにかたづける日本の法律がすこし乱暴かなと思っている)で十分であるという判断をし、これ以上レバ規制はしないと公言している。一連の規制ラリーは一応終わったと言う。
■国益とのバランス
私のようなものが使う言葉かどうか迷うが、「国益」と「個人投資家の保護」というバランスの中で本件を俯瞰してみるならば、25倍になったときの影響には以下のようなものが予見される。
さらに取引高の減少⇒業界の縮小により、
⇒FX業者や関連システム会社の縮小、倒産から生まれる「失業増加」
⇒「法人税収の減少」
⇒ショートキャリーパワーの低下により「円高への抵抗力が減少」
これと50倍からさらに25倍へと引き締めることによってより強固に守られたとする個人投資家の利益とをバランスにかけてどっちがより国益なのか、という議論はありきであると思う。米国でもCFTCへのパブコメでそういう視点での議論はあった。そのためにも上記の例でいう、基準についての開示はある程度ないと踏み込んだ議論は難しい。米国CFTCではこうした議論が白日のもとに行われている。議論が国民の前に公開されながら、パブリックコンセンサスを得ながら進むというのが今の政治のスタイルならば、そうあってほしいものであるし、一度決めたことを変えたりひっこめたりすることが、そこに合理性とか納得のいく事実があれば、なんら問題はないと思う。
■レバ規制50倍では円高阻止の「民衆パワー」は衰えていない
さらに、レバ規制が円高阻止の民衆の力を削ぎ落すのかというテーマだが、正直データが少ないので自信はないが、結論から言うとレバ50倍になってからの影響はあまりないとおもわれる。50倍規制で消えたのは足早でハイレバなHFTの取引であり、そもそも円ショートを踏ん張って持っている人たちのレバは25倍ですらないと推測する。50倍でやっていたとしても結果5円以上の円高が進めばその途中にマージンコールで切らされ、円高への抵抗力とはならない。ただし、一時的に円高を浴びせてきたときのブレーキング作用としては働くが、その何十倍とHFTたちがたたきこんでくる円売り、円買い入り乱れての取引の中では大した意味を持たない。25倍になったときにどれくらいのキャリー派が振り落とされるのかはわからないが、視点はそこではなくて、その時キャリー派が使っているレバレッジ以上の幅で相場動くかどうか、ではないだろうか。
(延長編に続く)