「オーストラリアで独自の進化を遂げる」―津田穣 氏[中編]
■プラザ合意、ポジションは当たるが本人不在
東銀バーレーン支店の、その存在価値を最も世の中に知らしめたのが、1985年9月のプラザ合意だ。あのとき、バーレーン支店が大活躍している。プラザ合意後の週明け9月23日月曜日(日本は秋分の日で祭日)にドーンとドル円が下がったが、その前(土・日)に大規模な世界中のオーダーをバーレーン支店が一手に受け止め、巨額の利益を生みだしている。
自分は、82年の2月から85年初頭までが、バーレーンでの勤務だったので、プラザ合意はロンドンで経験している。バーレーンで生き残ることができたので、次はロンドンに行けということになったのだ。自分は、ロンドンは旧い市場という先入観を持っていたので、生き馬の目を抜くようなニューヨークに行きたかった。でも、あまり、反抗的なことを言うと、日本に帰れとまた言われそうだったので、ロンドン行きを承諾することにした。
ロンドンではフォワード(先物)でポジションを取ったり、他に資金繰りも担当した。私のズレっぷりは、為替の世紀の大イベント、プラザ合意のときにも現れている。自分はそのときなんと休暇でスペインに旅行していたのである。ただ、既にマーケットの動きは察知していて、日銀が円金利を高めに誘導するのではないかという感触は掴んでおり、私は、米ドルと円の金利差が縮むというポジションをたんまりと持っていた。
なので、自分はその場に居なくても、ポジション的にはプラザ合意には参加していたことになる。当時7%程度日本と米国の金利差があったところに、日銀が円高誘導のために、金利を上げたため、ドルと円の金利が同じレベルになってしまった。
ズバリ自分のポジションが当たったわけで、休暇が終了しガッチリ儲けたと意気揚々と、ディーリングルームに入ると、上司に、“おまえのポジションな、あれ、利食っといたぞ”と言われて仰天した。マーケットは金利差が縮むという方向に動いているので、皆、東銀をバンバンヒットしてくる。そうすると、組織で動く日本の銀行では、私のポジションを利食わないでいるわけにもいかず、帰って来たらもうきれいさっぱりポジションはなくなっていた。こちらにしてみれば、宝の山を横取りされたようでなんとも不完全燃焼な気分だった。それが、私のプラザ合意の思い出になる。為替の世紀の大イベントの場に居合わせなかったことこそ、自分がズレていることの最大の証明なのかもしれない。
■歯を食いしばって戦う
ロンドンは旧い市場だとばかり信じ込んでいたが、取引量はニューヨークを上回り、米国系、英国系、スイス系の名だたる銀行とドンパチ打ち合うのに遜色はなかった。しかもロンドンのときは、1部リーグ、2部リーグとあって、東銀は1部リーグ。だから、私たちは社会的使命と言えば大げさかもしれないが、日本の銀行の看板を背負ってやっているという意気込みはものすごかった。泣き言は言わないし、せこいことも絶対してはいけない、それが東銀の矜持のディーリングだった。
私は、ロンドンの後半は、チーフディーラー、つまりドル円ディーラーに昇格していたので、歯を食いしばってディーリングをした。ただいくら歯を食いしばったとしても、1日何千万円といった損失を出すことだってある。それを取り戻さなくてはいけないという重圧は大きかった。そのせいか、私の奥歯の大半は抜けてしまっている。
他の邦銀や外銀でもなく東銀だったから、大きなポジションでディーリングさせてもらえ、ロスリミットに関してだってあまりうるさいことは言われなかった。そういった中でやってこられたというのは、とても幸せなことだったと思う。
東銀では、さばく玉(オーダー)の量が半端ではなかった。ロンドンでも、多いときに片道買いだけで20億ドル(約2,000億円)、今度は、20億ドル売ってというように、その玉をさばいていくフローで、儲けていくというスタイルだった。いわば、もうザバッと買ってザバッと売るといった繰り返しになる。反射神経的というか運動会的なディーリングのやり方だった。その分、ケミカル銀行とスイスバンクコーポレーションといった外銀に転職してから、随分苦労することになる。
1995年に第一勧業銀行(現みずほ銀行、以下、第一勧銀)のシドニー支店で働くことに決めたのは、ロンドン時代の第一勧銀の知り合いの方が、同行のシドニーでトレジャラーをやっていて、来ないかと誘われたからだった。到着したときは12月、真夏だった。ジャカランダという南国を代表する紫色の花が咲き乱れていて、リゾート気分におちいった。折りしも、すぐにクリスマスと新年になり、ホリデームード漂う中でクルーズ船に乗ったりして、これは、いいところに来た、とうとう自分にもツキが回ってきたのだと喜んだ。
ところが、当時、日本の銀行が傾き始めていて、海外支店でもディーリングのリスクテイクを縮小するようになっていた。結局私がシドニーも移ってからわずか半年で、大々的なディーリングは中止になってしまった。
ディーリングができないのであれば、日本に帰ろうかなと思っていたが、捨てる神あれば拾う神ありである。オーストラリアは資源の関係では商社などが多いので、そういった為替ビジネスが重要だから、カスタマーディーリングをやってくれないかということになった。カスタマーディーラーになって気がついたが、自分の人間好きな性格がこの仕事に合っていたのか、為替のヘッドとして、第一勧銀には、2007年まで12年間勤務した。
バーレーンで使用し始めたJoe(ジョー)は、本名の穣(みのる)が 外国人が発音しづらかったので、音読みにしたいわば海外使用。みずほのディーリングルームには、Joeが三人いたときがあって、それはそれで混乱した。“穣”は漢文を研究していた祖父が中国の文献にある“豊穣”から名付けたと聞いているが、まさか祖父も、孫が海外でJoeと呼ばれるようになるとは予想だにしなかっただろう。
■豪ドルの予想
オーストラリアは、海外で最も長く暮らしている。それだけ自分に合っているのだろう。。18年も居るので、金融畑の様々な人脈を築きあげることができ、多くの人と知り合うことができた。それは本当に自分の財産になっている。
銀行時代と比べると、現在はRBA(オーストラリア準備銀行)との人脈は希薄になってしまったが、RBAについて少し述べてみたい。人口2,200万のオーストラリアでは、RBAの金融政策は小回りが効いて、政策をしっかり監視できている。また、合議制ではないので、ストレートにやることができる。例えば、2008年のリーマンショック以降、日米がゼロ金利から脱却できないのに、RBAは金利を3%から4.75%まで上げて、次は4.75%から3%に落としている。それだけ金融政策を機動的かつ柔軟にやれる余地があるのだ。つまり、オーストラリアは健全な金融政策がワークするのである。逆に、ゼロ金利からから離陸できない日本やアメリカは異常な状況じゃないかと思ってしまうくらいである。
リーマンショック後、欧州経済危機なども発生して世界的に経済の不透明感が非常に強かったときに、オーストラリアにお金が集まり、2010年10月に、豪ドルが1豪ドル=1米ドルが史上初めてパリティに達した。不透明感が強いがゆえに、世界の中央銀行がこぞって、外貨準備の運用でかなり豪ドル(主に豪ドル政府債券)に投資したため、オージードルは1.00のパリティを超えてしまったというわけだ。
現在世界には、トリプルAの国が、11カ国しかない。その中で、資源国というのはオーストラリアとカナダだけ。世界中の投資家にとって安全資産が減っているため、オーストラリアには、継続して資金が流入するということになり、その状況が続く限りは、豪ドルは基本的に強いということになると予想している。
(後編に続く)
*2013年04月03日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】ディーラーデビューはバーレーンで
【中編】オーストラリアのJoeになる
【後編】FXで為替の本質に近づく
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