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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「オーストラリアで独自の進化を遂げる」―津田穣 氏[前編]

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津田穣



■一命を取り留めた事件の数々


 三菱鉱業(現三菱マテリアル)で石炭関係の指導者をしていた父親の転勤で、私が生まれて間もなくして、家族で東京から北海道に引っ越した。私たちが北海道に渡る際乗った青函連絡船の「洞爺丸」は、復路で、日本海運史上最大といわれる事故で沈没し、大変多くの方が犠牲になっている。

移り住んだ赤平市は、ちょうど北海道の真ん中あたりにある雪深い炭鉱町で、大自然に囲まれて、私は生き物が大好きな少年に育った。3歳のときにカエル獲りに行って、沼地に落ち、沈んでいたところを、近くを通りかかった中学生のお兄さんに助けてもらって一命を取り留めた。このように、一歩間違っていれば、現在の自分は存在しなかったと考えると感慨深いものがある。


高校1年の1学期に東京に戻ってきて、都立青山高校に編入し、大学は早稲田に進学した。北海道ではスキーをよくしていたので、早稲田ではスキー同好会に入って、1年間の半分くらいを山で過ごしていた。部活は、3年生でリタイアするのが普通だが、4年生の最後の最後までスキーにのめり込んでいて、気がついときには、卒業試験のレポートを提出しておらず、卒業できないかもしれない状況になっていた。既に東京銀行(現、三菱東京UFJ銀行、以下、東銀)に就職が決定していたので、卒業できないとしたらとんでもないことになる。このときは本当に焦った。

私はこういった一番肝心な局面でどこかズレている人間だと思っている。こんなだから、為替でもあまりスマートなディーリングができないのだろう。

東銀に就職しようと思った理由は、海外へ行きたいと思ったからだった。東銀は、他行と比較すると国内店舗は少ないが、外国為替専門銀行であるがゆえに海外支店は多かった。外国為替、当時はそのなんたるかはまったく知らなかったにしても、この言葉の響きに海外の匂いを感じた。


■父から受けた影響で東銀へ、そしてバーレーンへ


海外に対する興味を抱くようになったのは、父親からの影響が多分にあると思う。父親は、京都大学の工学部出身の技術屋を絵に書いたような人間で、とても厳格で、鉄人みたいな人だった。自分とはかなりタイプが違う。それゆえに、父に対する反動のようなものが私の生き方に表れているところがあるのだが、ドイツに炭鉱技術の指導に行ったりなどしていたので、父の友人のドイツ人がはるばる北海道の炭鉱町まで訪ねてきたりすると、父を尊敬せずにはいられなかった。


また、38歳で亡くなった2つ年上の姉が、既に東銀に勤務しており、非常に優秀な人だったことが、自分が就職できた大きな理由だと考えている。東銀は、兄弟や親族が勤務していたら、就職することは不可能だったのだが、姉が優秀ならばその弟もできる人間であるはず、と会社は期待したのだろうが、実は、弟は、スキーにハマっていて、入行が危ぶまれるようなヤツだったわけだ。

大慌てのレポート提出でギリギリ卒業でき、なんとか入行には間に合った。新入社員は80人程度。私も含めて、そのうち、3分の1程度が外為センターという貿易事務を取り扱う部署に放り込まれた。大抵の人は、外為センターに2年ぐらいいて、そこから、支店に出されることになる。

私の配属先は、蒲田支店だった。ある程度エリートであれば、支店で営業をやらされてから、トレーニーや留学生として海外に行くのが次のコースなのだが、自分に、出番がなかなか回って来なかったのは、先に述べたような入行の際のつまずきがあったからだと考えていた。ハーバードにでも留学させてもらえれば、将来の幹部候補生みたいなのもの。そういった同期たちを心底うらやましがりながら蒲田支店で、どぶ板営業(飛び込み営業)に精を出した。

蒲田支店では、為替予約も担当した。貿易業者からあがってくる為替を、本部のディーリングルームにつなぐ係りだった。この役は各支店にあり、支店の予約係を経験してからディーリングルームに異動というルートがあった。自分はそこに一縷の望みを掛けた。その願いが届いたのか、ある日、東京外為市場でもよく名前の知られていた、戸上支店長が「おまえ、海外へ行きたいなら、バーレーンに行くか」と私に訊いてきた。

「バーレーン?それはどこなんですか?」まさか中東にある小さな国に自分が派遣されるとは思いもよらなかったが、まあ、“蒲田行進曲”よりは、少なくとも、英語がしゃべれるだろうし、しかも為替をディーリングできるのならば、願ってもないチャンスだった。Vol.08にご登場されている佐藤三鈴さんの後任で、もう大変な方だから、失礼のないように、会社から釘を刺されてバーレーンへと向かった。


■バーレーンで成功しないと“逆戻り”がモチベーション


東銀バーレーン支店のディーリングルームは、まるで高校の部室のようだった。自分のイメージしていたディーリングルームとはまったく違う。バーレーンなので、本部のディーリングルームとは違ってしかるべきだろうが、その小さな部屋が、どんどん流れ出てくるトイレットペーパーのようなテレックスの紙に埋まらないよう整理するのが、新人の最初の仕事だった。なんだかとんでもないところに来ちゃったなと思ったのが、第一印象だった。


しかし、オフィス体制は小規模であっても、東銀バーレーンの存在価値は大きかった。当時、オイルマネーがものすごく潤沢で、しかも、地理的に欧州マーケットのちょうど入口にあたっていたので、まず、アジア市場に付き合って、最後のほうはロンドン市場にバトンタッチするという特長的な位置づけだった。イスラムの国では、金曜日が休日(日曜日にあたる)ので、その日は当番制で出社し、1人で、為替も資金もオールラウンドでやらなくてはならなかった。このことが後になって大層役に立った。

ディーリングは、バーレーン支店が初デビューだったので、当然のことながら、右も左もわからない。しかも、バーレーンで駄目だったら、つまりディーラーとしての適正がなかったら、日本に帰すぞ!と行く前に脅かされていた。自分だって、せっかく日本を脱出したのに、おいそれと“バーレーンで駄目でした”と帰って、地方の支店回りなんかするのはまっぴらごめんだと思った。逆に、バーレーンで成功したらロンドンやヨーロッパ、場合によっては憧れのニューヨークに転勤させてもらえるチャンスがあるかもしれない。それが一番のモチベーションとなり、ディーリングに励んだ。

イスラム諸国は、世界中でも、土曜日と日曜日はビジネスが開いている。東銀バーレーン支店も土・日にやっているから、ここで為替のカバーができるというニーズがけっこうあった。例えばドル円120.50−55というレートが建っていて、カウンターパーティーから、 “テンミリオン(1,000万ドル)、ユアーズ”と50を打たれると、これは売って来ると踏んで、次は25−65などと、スプレッドを大きく広げて出してしまう。

今では到底考えられないことだが、自分で勝手にプライスをクォートするということが、バーレーンの特色を活かしてできた、そんな時代でもあった。

(中編に続く)

*2013年04月03日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】ディーラーデビューはバーレーンで
【中編】オーストラリアのJoeになる
【後編】FXで為替の本質に近づく



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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