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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「情報を制するは為替を制す」 ―荻野金男 氏 [中編]

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荻野金男


(前編はこちらから)


■多くの外国人師匠


銀行のスペシャリストとは、為替ディーラーを意味していた。この時代の外銀の為替業務に携わる人は、邦銀からの出向者が多かった。バークレイズの場合、三井、住友、第一勧業、といった大手都銀から来ていた。僕は、三井の人の業務を受け継いで、送金、テラー、輸出の買い取り、日銀報告、バンク・オブ・イングランド・レポート(BOE:英系の場合は英中銀へのレポートもある)などバックオフィスの仕事をすることになった。

為替事務を覚えてから、ディーリングルームに入ったのは2年後のことだった。ディーラーの仕事は、2年間真近で見ていたので早くディーリングをしてみたかった。師匠は、アンドリュー・ポイントンというチーフディーラーだった。在日外銀には、将来的な東京市場の発展を予想して、欧米市場で経験を積んだディーラーが送られてきていた。


中でも、特に東京市場を席巻した辣腕で優秀な外国人ディーラーは、このアンドリューと、UBSのクリストファー・シェンク、ファーストシカゴ銀行のラルフ・ザノーニの3人だった。そのひとりについて、厳しいけれど師匠の市場の見方、香港とシンガポールと常に情報交換しながらポジションを取るタイミングなどをつぶさに見られたことなど、今となっては懐かしい時代であった。

一番最初にポジションを取らされたときのことを今でもよく覚えている。チーフが昼飯で席を外すので、「金さん、今400万円儲かっているから、後のポジションは“イッツ・アップ・トゥ・ユー”」と僕に向かって言ってきた。彼は、それで僕にレッスンさせようというもくろみのようだったが、ある程度は教えてもらっていたにしても、実際に「ハウナウ?(今プライスはどんな?)」と訊かれてクォート(建値)するときのやり方については教えてもらっていなかった。肝心な部分は実践で学ぶ、それが、彼が僕にさせようとしていたことだった。

とにかく一生懸命やるしかないと緊張してスタンばっていると、三菱信託銀行シンガポール支店が「ホワッツ・ユア・ダラーエン・プライス ナウ?」とコールしてきた。30−35とクォートすると、「30ユアーズ、3ミリオンダラー」と言われたので「ダン!」した。すると、またハウナウ?と来る。うーん、と思いながら、今度は、28−31と出すと、28ユアーズされた。

またハウナウ?と言うから、今度は25-30と出すと25ユアーズと三連弾で来て、「スティル・プライス・ゼア(まだクォートする気があるか)」と言ってきた。その時点で、600万ドルほどロングになっていて、300万円程の損になってしまっていた。それで、最後に、グッと左に寄せたら、ナッシングになったので、この一連のトレードから解放されたのだった。


■自分が責任を取らないと人は育たない


ああ、やってしまった!心臓のバクバクが収まらないところに、チーフが戻って来てどうしたのかと訊く。彼はまったく怒らずに、相手が完全に売りとわかっていたら、30−35でクォートした後は20−25などもっと左にボーンと寄せればいいのだとアドバイスしてくれた。25をマインするディーラーは、ディーラーの風上に置けないのだからと言う。

そして、翌日の土曜日にチーフは出勤して、様々なケースごとに実践で教えてくれた。仮に1度失敗をしても、2度と同じ失敗を繰り返さないようにするというのが彼の教えだった。おかげで、ドル円担当のディーラーとしてめきめき上達していったのだった。上達したのは、何もディーリングばかりではなかった。東京マーケット終了後、本店やシンガポールに提出する英語のマーケットレポートの添削もよくチーフにしてもらった。これにより、為替・金融市場で使われる特殊な英語の言い回しなどの文章力が格段に進歩した。


本当に数々の良い師匠に巡り合ってきたと思う。彼らを見ていると、自分が責任をとらないと人は育たないということがよくわかった。僕もそのポリシーで部下を育ててきたつもりだ。自分も決して、人を叱ることはなかった。何も叱らなくても、人を育てることはできる。実際自分もそうしてもらったのだから。そうやって成長してくれた部下たちが今でもこの業界で活躍してくれているのが何よりだ。

78年にバークレイズロンドン本店に赴任の辞令が下りた。いつか海外で仕事をしたいという希望を持っていたので、単純にうれしかったばかりでなく、あの“為替のバークレイズ”の本店でディーリングができるのだからとても光栄に感じた。

この時代のバークレイズは、バンク・オブ・アメリカ、シティ・バンクに並び、為替のトップ3と呼ばれていた。特にロンドン本社のディーリングルームはヨーロッパで最大の規模とまで言われていた。ポンドに関してはほとんど牛耳っていただけでなく、ナイジェリアナイラや南アランドなどのエマージング通貨なども活発にトレードしていた。


■プロップディーリングに目覚める


バークレイズは、ロンドン本店、香港、東京、シンガポール、フィリピン、バーレーンをチャットシステムでリンクしてやっていたほど、ディーリング体制はものすごく進んでいた。このシステムで、本店でポンドの大きな玉を売るから皆のポジションはどうだとか、これからポンドを買うからショートポジションはカバーしておくようにと、一斉にやっていたのである。

ロンドンの為替本部長は、クリス・ベネットと言って、とても良い親分だった。本店のグローバルヘッドの為替部門はクリス・パブロで優れたディーラーであり、BOEの為替担当からは、いつも彼のポンドに対する見方や動向が注視されていたくらい、ロンドン市場のみならず欧州のポンド市場まで牛耳っていた人のひとりだった。


インターバンクディーラーには、大まかに言うと、フロートレードとデイトレードとプロップトレードの3つのタイプがある。パブロ氏は、単に売ったり買ったりするだけでなくて、自己裁量でポジションを大きく取って利益を上げることを専門とするプロップタイプのディーラーだった。自分は、こういうディーリングスタイルがあることはロンドンに行くまで経験はなかった。ほとんどジョビング(売買を繰り返す)かデイトレード(その日のうちにポジションを閉じる)をやっていたからだ。

イギリス人のディーラーは、総じて手堅いディーリングするのが特徴だ。だが、パブロ氏は2500万ポンド相当以上の大きなポジションを張っているせいで、いつもBOEに目を付けられていたのだけれど、プロップディーラーのスタンスでポジションを仕込んでいるので、沈着冷静ぶりや根性の入り方はハンパではなかった。見よう見まねで彼のディーリングの仕方も学んでいった。

僕が出会ってきたディーラーからも言える優秀なディーラーの条件としては、パニクらない、タフであること(ロンドンのディーラーはパブでも飲み方がハンパでなくタフだった)、プレッシャーに負けないこと、そして相場の状況を把握することだと思う。自分自身もそれに努めた。加えて、負けても早く切り替えてこだわらない方が、ディーリングに有利に働くと思う。

70年代後半から80年代前半にかけて、外資系の銀行が日本にどんどん支店を開設し、ディーリング業務を拡充していった。あの“丸の内仲通り”が“外銀通り”と言われたほどその進展ぶりはすごかった。

東京外為市場は、第1次外為法改正、実需原則の撤廃、ダイレクト・ディーリングのスタートなど、大きく様変わりし始めている時期でもあった。偶然にも自分はちょうどそこに飛び込んでしまったのだ。ここが自分の本当の居場所のような気がした、好きだった英語はもう手段でしかなく、目的は為替になっていた。

(後編に続く)

*2011年10月25日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】実力主義の世界に出会う
【中編】責任を取って人を育てる
【後編】業界一の情報通であるべく



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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