「情報を制するは為替を制す」 ―荻野金男 氏 [前編]
■英語の環境に囲まれて育つ
日清日露戦争が最近NHKのドラマ化で話題となっているが、日本の騎兵の父と呼ばれる秋山好古率いる「近衛騎兵連隊」出身の親父が65歳のときに4人兄弟の末っ子として生まれた。近衛騎兵連隊には、頭が良くて体格が良くないと入隊できなかったと聞いている。実際、両方を兼ね備えていた親父は、僕ら兄弟にとっては神様のような存在だった。厳格な父ではあったが、かなり年をとってから生まれた僕(小学生まで、父親ではなくお祖父さんだと信じていた)は怒られることはほとんどなかった。
故郷我が熊谷は、歌舞伎で有名な熊谷陣屋に登場する坂東武者の熊谷次郎直実の出身地で、菩提寺の熊谷寺(ゆうこく寺)がある。また戦前、陸軍飛行学校と軍需工場があり、終戦前夜、日本で最後の米軍B29爆撃戦隊に爆撃されて焼失された後に、熊谷基地は進駐軍に接収されていて、米軍将校の兵舎がその近くにあったので、親父に教えてもらって、ジープに乗っている将校に向かって「ギブ・ミー・ア・チョコレート」と言ったことがある。5歳で初めて話した英語だった。こうしてゲットしたチョコレートはびっくりするほどリッチな味がして、アメリカへの好奇心や憧れが芽生えた。
小学校での一番の思い出は、5年生で、合唱団のメンバーとして、クラスから選抜されて(この頃は、ボーイソプラノの美声)、「TBSこども音楽コンクール」に東関東代表として出場し、入賞したことだった。普段はおとなしかったけれど、いざとなると物怖じしない性格だったから、「ギブ・ミー・ア・チョコレート」でも「音楽コンクール」でも平気だったのだと思う。
中学校から歴史に魅せられ、社会学部に入った。中でもハマったのは“お城”。以来、50年近く、興味は尽きないどころかますます昂じてしまい、 “城郭めぐり”がライフワークになってしまった。現在は、国内外の城郭の調査研究を行う『財団法人日本城郭協会』の会員となっており、時間の許す限りお城に足を運んでいる。
国内では、江戸時代のままの姿を残している弘前城が最も好きだが、バークレイズ銀行(以下、バークレイズ)の本店やゴールドマン・サックス(以下、GS)のロンドン支店に勤務していたときは、スコットランドのエディンバラ城やバルモア城などを訪ねる好機を得て、海外の城に対する興味も高まった。
■「キャタピラー三菱」でコストアナリスト
単にお城だけを見るのではなく、どういう人物がその城に関わっていたのか、またそこでどういうことが起きていたのかなどを掘り下げるのはとてもおもしろい。“一国一城の主”という男のロマンや遠い昔の人間模様などに思いを馳せていると時の経つのを忘れてしまう。自分は人間というものが好きなのだ。相場も人間の集合体という意味では興味の尽きることがない。相場もまたライフワークである。
本来であれば進学校の熊谷高校に進みたかったが、中学3年生で親父が亡くなり、『日本育英会』の奨学金をもらって、当時西関東地区の甲子園出場校で有名な埼玉県立熊谷商業高校に入学した。おふくろに負担はかけられないので、大学進学はこの時点で諦めなければならなかった。商業・工業簿記や会計と珠算などの資格を持った方が就職に有利になるから一生懸命勉強した。いつか大学で学びたい思いはずっと持ち続けていたので、GS時代に通信教育で、カリフォルニアの大学の経済学の学位を取得している。
高校生になるとクリスチャンの兄貴に連れられて、週2日英語を習いに教会に通った。教会で習う英語つまり教会英語とは、聖書に書かれてあることをどう思うかなど英語でブレインストーミングすること。それまで日本語でさえやったことがなかったのに、英語でディベートするのは、最初は非常に難しかったが、自分の考えをしっかり述べ、議論できるようになっていった。幸運にも、この経験は、外資系の会社で活かされることになる。
高校では英語部(ESS)の部長も務めている。部員を率いて、米軍キャンプのあった成増のハイスクールを訪ね、実地訓練をしたりした。高校では、ラグビーもやった。たった1年間だけだったけれど、ガッチリとした体格に変身したので、“甲種合格”の親父の血は、紛れもなく自分に流れていることを実感した。
就職は「キャタピラー三菱」(以下、キャタピラー)に合格した。金融機関を受験しようとも考えたが、当時、母子家庭には不利だった。購買部に配属され、原価計算や分析をして原価管理体制を行うコストアナリストになった。トラクターなどを輸入する際に、正規分布をつくって異常な(高い)なコストがあればそれを抑えるべくサポートする仕事だ。
■銀行のスペシャリストとして
購買部の仕事をしている内に、私が、英語が堪能なことが社内でも評判になっていた。いつもアメリカの『キャタピラー・トラクター・カンパニー』から人が派遣されていたから、たびたび、「金さん!頼むよ!」と通訳を頼まれるようになった。コストアナリストの仕事は、基本的には地味職務でしたが、資金部と銀行借り入れ資金の5ヵ年計画の資金計画などでブルドーザーのプロダクト別のコスト計算などを上司について計算したりと資金繰りのベースなどいろいろ経験させられた。
この頃から“金さん”とか“金ちゃん”とか呼ばれていた。親父は“喜蔵”なので、喜ぶ蔵に合わせて金男と名付けてくれたらしい。偶然にも、金融業界にピッタリな名前のおかげで、日本人外国人問わず誰にでも覚えてもらいやすい。GSに入社したときには、まさしく“ゴールドマンの金(男)ちゃん”だった。
71年2月、一大為替イベントが起こった。それは、自分にとって初めて為替を意識した出来事でもあった。「ニクソン・ショック」の後の「スミソニアン協定」でドルが切り下げられ、それまでの1ドル360円の固定相場から308円になったことだ。円高への道がスタートする起点になるまさにエポックメイキングな出来事だった。当然のことながら、キャタピラーにも大きな影響をもたらしたため、休日出勤までして、輸入品の価格をすべて308円に換算し直さなくてはならなくなった。
入社して6年が経過し、より責任のある仕事も任せてもらえるようになり、それなりのやりがいも感じられるようになっていた。課長がとても良い人で、統計学をみっちり仕込んでくれたことは、後々になっても役に立った。数字に強いのはディーラーにとってはプラスであろう。
しかし、どうしても、もっと英語を活かせて海外で活躍できる仕事がしたくてたまらなかった。まだ大学新卒の年齢だから、今からでも全然遅くないと思って、何社か面接を受けることにした。その中で、日本航空(以下、JAL)とイギリスの大手銀行バークレイズの東京支店に合格した。ジャンボ機(ボーイング747)の就航で華々しかったJALはスチュワードを募集していて、バークレイズは業容拡大で銀行のスペシャリストを育成するとのことだった。
両方共魅力的な仕事だったが、その頃、頻発していた航空機事故を心配したおふくろに止められた。バークレイズでは、母子家庭はまったく問題視されなくて、外銀の実力主義の匂いが感じ取れた。本当の外資系に入るのだと思うと、不安よりも期待の方が大きかった。
(中編に続く)
*2011年10月25日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】実力主義の世界に出会う
【中編】責任を取って人を育てる
【後編】業界一の情報通であるべく
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