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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「森羅万象の世界の中で」 ―中江史人 氏 [中編]

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中江史人


(前編はこちらから)


■創成期のおもしろさに満ちて


 北九州で3年半国内の貸付け業務をやっていた人間からしてみると、為替?なんのこっちゃ、というのが最初の正直な感想。だいたい英語だってまともにできない。(できたのはビートルズの歌だけだ)いきなり初日に、先輩ディーラーからレートを言われて、それをテレックスで打てと指示されても、テレックスなんて初めて見るものだから、打ち方すらわからない。知らないことをいきなりやらされた経験なんてそれまでなかったので、「いったいここはなんなんや?!」と本当に驚いた。


しかし、為替に放り込まれたことは自分にとって非常に有意義だった。というのも、めちゃくちゃ忙しくてハードだったために、この仕事を経験すればどんな仕事でも恐れるに足りないと思うようになれたからだ。最初の3ヶ月間だけで、一生分に相当しそうなほど本当に多くの仕事をこなした。本を、毎日、一気に10冊も20冊も頭に詰め込まれたようなものだ。しかし、それは系統立って教えられたわけでもない、完全な徒弟制度のOJTだった。

三菱の会社としての、ディーリングに対する姿勢は、あえて深く議論したことがないので、よくわからない。ただ、非常に素晴らしい諸先輩に恵まれていたので、むしろその人のスタイルを学ぶところが多かった。何が起きても動じない人もいるし、騒ぐ人もいる。ディーリングには如実にその人の人間性が表れる。こういった人間的な度量から学ぶ部分が最も大きかったように感じる。


3カ月経ってからポンドとカナダドル担当のディーラーになった。このふたつの通貨を、日本でトレードしている銀行は少なかったので、よくシンガポールの銀行などの格好の餌食にされていた。それでも、1年ほどしてドル円のチーフディーラーに昇格したのは、人員が少なかったせいだ。

わずか1年では、自分のディーリングのやり方も何もなくて、インターバンクで大きな玉をさばくためにスピードが勝負ということもあり、ほとんど反射神経的にやっていただけ。正直なところ、あの頃は、それしか方法がなかった。

創成期(変動相場制に移行してからを創成期とすると)のセカンドジェネレーションとしては、まだ何もかもが手探りだった。東京外為市場内でのインターバンクの取引だって、開始されたのは、僕がディーリングやり出してから2~3年後のことだった。

東京外為市場に携わる者が一丸となって、インターバンクを盛り上げよう、困難なことを乗り越えていこうというベクトルは強かった。何が起きるかわからない時代ならではのおもしろさと自分の判断次第で多大な損益が生じる仕事に携わらせてもらうことに、僕自身も大きなやりがいを覚えたのだった。


■自分がマーケット、ただしアッサリと


 85年9月のプラザ合意の直後にニューヨークに赴任した。プラザ合意を経験されたほとんどの方が口を揃えて言うように、自分にとってもプラザ合意は最大級のイベントだった。現在のマーケットは、1円ぐらい動いたら円高だと騒ぐほど極めて狭い値動きしかしないが、あの頃は当たり前のように1日5〜10円程度は平気で動いていた。

為替市場では、建値は、2桁(○○銭単位)を提示するのが慣わしになっている。だが、値段がものすごく飛んでいるようなこの時代は、相手が6円台で売ったつもりでも、こちらは4円台で買ったと思っているような齟齬が生じてしまう。そして実際、検証できないことは、本当にたびたびあった話だ。


非常にボラタイルな時代だから、東京タイムでドル円のレートがなくなることもよくあった。“レートがない”とはブローカーが使う言葉で、自分たちが銀行からもらっているレートがないという意味。この言葉を聞くと、心臓がドキッとしたものだ。

インターバンクのディーラーは、基本的に値段をお互いに出し合うという紳士協定(レシプロ)があって、それを守らなかったら、マーケットでは評判になってしまう。建値して、そこで被害を受けるよりは、黙って放っといてもいいわけではあるが、仮に一度でも逃げてしまえば、自分が困ったときに、今度はその人に助けてもらえないということがあるので、呼ばれたら一生懸命応じるようにする。


苦しくても、そこがディーラーにとっては唯一自分がええ格好できる場面でもあるのだ。マーケットにはひょっとしたら自分のレートしかないかもしれないと思って建値することはものすごい恐怖であるのだけれど、ワクワク感もそれに勝るとも劣らなかった。実際、ニューヨークでは、当時“レートがないこと”が日常茶飯事で、いっぱい体感することができた。

ディーリングをしているときの心の持ち様としては、自分自身がマーケットだと思わないとやれない。ただ、そうであっても、今世の中には、ひょっとしたら自分しかレートを出していないのかもしれないと偉そうに思うのではなくて、これって自分の仕事だよねくらいのアッサリした気持ちでやるのが自然になっていた。


■森羅万象から相場を見る


 自分は勝敗的には圧倒的に負けが多かった。だが、“負け”は、考える時間を与えてくれる。あまりくどくど自分の間違いを考えても仕方がないのだが、自分の中でいたらない点があるということだけははっきりしている。そこで、自分が考えたのは、ニュースや情報だけに頼るだけでなく、もっと総体的に、自分を高めるほうがマーケット感覚は磨かれるのではないかということだった。

高めるというのは、ディーラーとして特別何かするのではなくて、地理でも政治でも文化でも、もっと人間としての素養を持つようにすることだ。そう努めるようになってから、相場をもっと幅や奥行きを持って見られるようになっていったような気がする。


少数意見かもしれないが、文化や政治的な影響や地理的なポジショニングなどいろいろな要素が絡み合って、世界の経済活動が起きているわけなので、相場だけを見ているのでは不十分だと思っている。為替レートは、二国間で決めているわけだが、その二国間だけではなくて、実際はいろいろな通貨があって、それがマルチに膨らんでいくので、相場を考えるときにはものすごい要素が増えてくる。

つまり、多少大げさな言い方になるが、相場は、森羅万象を考えないといけないことになる。また、逆に、自分は神様ではないのだから森羅万象がわかるわけはないし、その領域に到達することは有り得ないのだからと思えば気が楽になる。稀に大勝した日は、神様が一瞬自分に触れてくれたのではと思うことはあるが。


情報は、個人的にはあまり重視していない。結局いくら集めても、巨大過ぎるぐらい巨大な為替市場の中で、しょせん自分のテーブルの上に集められる情報なんてたかが知れていると考えるからだ。

いまだに自分が初心者だと思うのは、何が本当に相場を動かしているのかよくわからないということ。巨視的に、自分なりの考え(相場観)はあっても、そのときそのときのニュースや経済指標の発表などでどう動くか、短期的に相場を予想することはなかなか難しい。とは言っても、自分の考えを持って実行することがこの仕事の醍醐味のひとつなのである。また、初心者ゆえに、毎日相場をワクワクして見ることができると思っている。

(後編に続く)

*2011年09月12日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】“アウトサイダー”為替に出会う
【中編】いまだに初心者
【後編】勝てば幸運、負ければ勉強



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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