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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「森羅万象の世界の中で」 ―中江史人 氏 [前編]

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中江史人



■ビートルズに熱中した青春時代


 小学校までは、大人に、吹けば飛ぶような体をして口だけ達者と呆れられるほど、ませた子供だった。本が好きだったから、同年代の連中よりも頭だけは成熟しているようなところがあって、遊ぶのも年上の人たちばかりだった。

斜陽旧家出で中学や高校の先生をしていた父は、生徒や父兄からの相談事を、骨身を惜しまず解決しようとしたりする(無償で金品の援助などもしていた)いわば聖人のような人で、お礼をもらっても絶対に受け取らなかった。家族との時間よりも、困っている人のために日夜奔走する父の姿を見ていると、どうしてこんなに他人のために尽くせるのか子供心には不思議で、成人後してからは反発することもあったが、自分が年齢を重ねてみると、純粋に人の役に立とうとしていた父の気持ちが少しわかるようになった。


自由を尊重しながらきちんと育ててくれた両親にはとても感謝している。世の中の何かに対して憎しみを持つということもまったくなかった。兄弟仲が良いのも、両親のおかげだと思っている。頭デッカチの僕と違って、すぐに手が出る弟とは、子供時代はよく他愛もない喧嘩をしたものだが、現在は以前にも増してひんぱんに顔を会わせている。

家には、父の教え子の人たちがいつも大勢遊びに来ていて、その大半が僕の行っていた天王寺高校から、京都大学へ進学していた。こういう人たちに囲まれていれば、自分も同じコースを歩むのが自然の成り行きだった。小・中学生のときは、特別勉強などしなくても成績優秀なほうであったので、勉強しないでいたら、かつての神童は高校1年生でボンクラになってしまっていた。安田講堂占拠事件もあって、大学受験は、1年目は失敗し、2年目に無事合格した。


大学時代は、ビートルズやジャズにかぶれていて、バンドの活動に夢中になった。デビューは、2回生のときの文化祭。プロのリズムセクションが入り、5人のメンバーで結成された『サムシングエルス』の中で、僕は、楽器はできないけれど、歌うことが大好きだったのでボーカルを担当した。

文化祭での「ビートルズ喫茶」を成功させたことに気を良くして、日本中を地方巡業して回った。いいアルバイトにもなって、ちょっぴり女の子にもてたけれど、何よりも自分の大好きなビートルズを歌えるのだから、これほど楽しくて幸せなことはなかった。学生運動華やかなりし時代、僕が3回生を終える頃までは、ほとんど授業がなくて、基本的にレポートを提出すればよいだけだったので、大学生活はこのうえなく自由気ままだった。


■縛られるのは苦手


 学生運動にのめり込んでいる人たちは理想というものがあったのかもしれないが、僕は、当時物事を深く考えるタイプではなかったし、完全なノンポリだった。加えて、自由な大学時代が影響して、縛られることが大の苦手になってしまった。ただ、一方では、こうなるべきこうあるべきと決め付けることのない、人に対して柔軟性のある人間になることができたと思っている。

残念ながら自分自身には才能はなかったが、音楽は、一生を通じて欠かせない趣味になっている。金融のみならず、ジャズの本場である、ニューヨークに転勤になったときは、もうジャズ三昧。ジャズクラブに週2−3回通い詰めて、向こうのジャズメンと親しくなりその関係は今でも続いている。最近は、日本の奇想の画家たちに惹かれていて、いつか若手芸術家や音楽家をサポートする仕事が夢でもある。


1970年頃は、“就職黄金期”だった。たぶん史上最高くらいだったのではないか。京都の下宿に、山のように企業からの案内状が来て、電話応募するだけで2〜3日後には「合格です!」と通知が来るほど、ものすごい学生争奪戦が繰り広げられていた。

三菱銀行(以下、三菱)に決めたのは、「ネクタイを締めてもらったから」だ。それまで自分はネクタイを締めたことがなかった。面接に向かう途中の地下鉄で酔ってしまって、そのときはずしてしまったネクタイを自分で締めることができないでいたら、親切にも人事部の女性が締めてくれた。これが決め手だった。そして、もうひとつの理由は休みが多かったこと。


入行して大阪の船場支店に配属された。同期は1支店で10数人入社するほど新入社員の数が多かった。その中の男性社員5人は、当時わりとステータスが高かった銀行員として、船場の大店のお嬢さんの結婚相手に引っ張りだこだった。彼らには10件以上の見合い話があったのに、自分には一度たりとももそういう話が来なかった。

一目散に退社するし、時々ズル休みをしてそれがバレたりする、ろくでもない社員にお声は掛かるはずもなく、大学生の頃からの“ビートルズカット”では、まったく対象にならなかったのだろう。髪型を変えるのが面倒なのでこのビートルズカットは未だに健在である。


■“普通の人”では行けない部に配属


 三菱は、日本の銀行の中では、最も保守的な銀行というイメージがあるかもしれないが実際はそうではない。本流は非常に骨太なのだが、人に対してはわりと自由だ。総務課長が、僕を見る度に、お金あげようかと言ってくる。暗に、散髪しろとほのめかしているのだ。

「いや〜、昨日散髪してきましたから」とやり過ごしている内に、何にも言わなくなった。こいつには何を言っても無駄だとあきらめたのだ。昔の牧歌的な時代だからこそ、自分のようなタイプの人間でも大目に見てもらえていた。ただし、出世にはマイナスだったかもしれない。


勤めている内に、細かい事務や札勘などの基本的な銀行業務がキチンとできない(周囲の人にいつも助けられていた)ので、自分は銀行員には向かないことに気がつき始めていた。そう自覚できるくらいだったから、当然のことながら会社の評価も同様で、北九州支店への転勤は、行内では、左遷されたと噂されていたけれど、自分は北九州が楽しかったので、左遷とはまったく思わなかった。

3年半して、支店長から、「普通の人では行けないところに異動してもらう」と言われた。その“行けないところ”は、“皆が望んでも行けない”のではなくて、“ほとんどの人が行くことを望まない”というのが正解である。そこは、…….ディーリングルームだった。


ディーリングルーム(国際資金為替部)は、少人数で超多忙だったせいか、支店がレートを出してもらって、お客さんから確認をもらうのが少しでも遅くなってしまうと、「何やってんだ、おまえらっ!」とガチャッと電話を切られてしまうような、銀行員とはあるまじきマナーの部だったから、行内でも飛び抜けて評判が悪かった。

数年後には、三菱の中でも主たる収益源となっていく部であっても、あの当時まだこういったマーケット物は確立されていなくて、銀行の中ではアウトサイダー的な存在であったので、普通に出世したい人であればそんなところは希望しない。普通の銀行員には向いていない自分に白羽の矢を立てたという意味では、会社に見る目があったと言えるかもしれない。

(中編に続く)

*2011年09月12日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】“アウトサイダー”為替に出会う
【中編】いまだに初心者
【後編】勝てば幸運、負ければ勉強



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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