「儲けるよりも勝つことを目指して」 ―大前雅生 氏 [前編]
■高校生で日本脱出
現在の立派な体格では、誰にも信じてもらえないが、小学校3年まで虚弱体質で、しょっちゅう熱を出していて、体育も見学しているような子供だった。兄はまったく逆で、小さいときから体が大きく、野球部のエースで4番であり、勉強も一番だったので、常に比較されていた。
兄のしがらみから解放されたのは、体が大きくなりそれに伴って足が速くなったおかげで自信がつき始めたことと、シャープに勤めていた父がCSKの大川功会長の秘書に転職することになり、大阪の八尾から東京へ引っ越したことがきっかけだった。兄は高校生になっていたので、大阪に残ることになった。東京に来られること自体に興奮したが、ブラザーコンプレックスからも卒業できることがうれしくてたまらなかった。
高校は明治学院高校。ぼっちゃん学校は自分にはそぐわなかった。なにしろ勉強をしなかったので成績は最悪だったばかりでなく、素行もよろしくないので停学も一回くらっていた。不満で鬱屈しているから、将来の夢や希望も描けないが、このまま大学に進学して、普通のサラリーマンになるのだけは避けたかった。
悩んだ末、導き出したのは、“日本脱出”だった。アメリカに行けば自分の人生が変るはずと信じ、猛反対する両親に、泣いて嘆願した。初めて見る息子の真剣さに、親は折れるしかなかったようで、ロサンゼルスの高校に編入することになった。ホームステイ先では、ろくに食事もさせてもらえなかったが、それでもアメリカで勉強できることは無上の喜びだった。
大川さんには家族ぐるみでお世話になっていて、僕自身も大川さんから大きな影響を受けている。これからはハードでなくてソフトの時代になるから、パソコン(当時はマイコンと呼ばれていた)だけはぜひやっておきなさい、と進言されたことを思い出す。
他にも、当時、CSKのセガ買収にあたって、頻繁にアメリカを訪れていた大川さんに連れられて、セガのシリコンバレーの工場に(試作品のゲーム機がいっぱいあった)行ったり、街全体が見えるから、その街の一番良いホテルの一番良い部屋に泊まりなさい、と言われて、実際ペントハウスに泊まらせてもらったことも良き思い出だ。思い返してみると、そのひとつひとつが帝王学のようなものだった。
1年して高校を卒業したのでいったん帰国して、アメリカの大学に進学したいと両親に申し出た。両親は、少しはたくましくなった僕に安堵したらしく承諾してくれた。それで気が緩んでしまい、すぐに進学せずに、1年ほどアメリカ国内、カナダ、メキシコを放浪して回り、親からもらった授業料を使い果たしてしまった。
■ソロモンで「バド・フォックス」
ロサンジェルス市立大学に入学はしたが、スッカラカンになってしまっているので、さまざまな仕事をして学費や生活費を稼がなくてはならなかった。一番おいしかったのが、ビデオ映画の翻訳。日本ではレンタルビデオが始まったばかりで、多くのバイヤーがこぞってビデオを購入しに来ていた。B級映画、スポーツ物などを主体に、物によっては2時間程度チャチャッと翻訳して1本につき300ドルもらえることもあって、この仕事の絶頂期には、ビーチ沿いの4部屋もあるプール付き家を借りたりしたこともあった。
だが、何もアルバイトにばかり精を出していたわけではない。勉強は一生懸命やって、いつか必ず役に立つだろうと思って英語力に磨きを掛けた。後1年半ほどすれば大学も卒業できる、そう思っていた矢先、途中で帰国しなくてはならない破目になってしまった。父が87年10月のブラックマンデーで、株で大きな損失を被ったせいで、病気で倒れてしまったからだった。
こんなことになるならあのとき旅行なんかしなきゃよかったと後悔しながら、大学はいったん休学することに決め、仕事を探し始めた。たまたま、アメリカの友人の父親が、ソロモンブラザーズ証券(以下、ソロモン)の日本駐在になったので、そのツテをたどり、契約社員のフロアアシスタントになった。父が株で失敗しているのに、なんで証券会社に入るんだろうと思ったが、時給の高さは魅力だった。
西海岸で生活していた人間からしてみると、スーツを着て必死で働くアメリカ人は同じ人種には思えなかった。しかも、有名校のハーバードやMIT出身者ばかり。帰国する直前に観た『ウォール・ストリート』にビックリしていたら、実際の世界がここソロモンの東京支店にもあった。
自分はさながらチャーリー・シーン演ずる「バド・フォックス」で、小間使い的にコキ使われる。主要な仕事のひとつは、セールスのトレーダーが手をあげたらダダッと走って行って(ディーリングルームは端から端まで200メートルほど)顧客向けの資料を、真後ろに12台並んでいるファックスで、5〜10分足らずの間に50ヶ所に一心不乱になって送ることだった。
その当時、ソロモンには優秀なプレイヤーが数多く存在していた。日本人で言えば、松本大さん(現マネックス証券社長)。入社数年にして稼ぎ頭で、彼の回りにはいつも外国人がいて、おまえまたすごい儲けたななどとよく言われていた。かの有名な明神茂さんと彼の率いる円債チームも本当にすごかった。日常的にこういった人たちを見られるのは大きな刺激だった。
■「プラザ合意」の影響でディーラーに
僕のデスクは、ディーリングルームの一番端っこで、いつも電話を叩いたりイライラ怒っている人たちがいるエリアだった。日本株や円債チームは3時に場がひけたら、イエーイみたいな感じでハイタッチしていたのに、このセクションはずっと暗くやっている。いったい何をやっているのだろうと不思議だったが、その内に為替チームであることがわかった。
為替はアメリカの生活を通じて、実際身近に影響を受けてしまったものだった。85年9月のプラザ合意で、日本からの仕送りは劇的にラクになったけれど、逆にリトルトーキョーでは物の値段が2倍になってしまった。お寿司屋の職人さんやピアノバーのホステスさんなど、日本に仕送りしていた人は半分になってしまったから、帰国を余儀なくされた人が多かった。
そうだ、為替だ!これをやりたいんだ!初めて本当にやりたいものに出会った。しかし、新卒を5~6名しか雇わないソロモンで正社員として雇ってもらうことは不可能だった。当時、東証には“場立ち”があったので、(たぶん体格を見込まれて)それだったらいいよ、と言われてガッカリした。
アメリカの大学中退では日本の会社は無理だったが、この時代は、英語が話せれば、外資でのニーズはあった。僕にとってみれば、学歴よりも英語力が宝だった。ソシエテジェネラル銀行(以下、ソジェン)を紹介してもらって入ることになった。
僕を鍛えてくれたチーフディーラーは、相手の心理を読むのが非常に巧みな、かつてグリーンベレーの隊長だった経歴から皆に“キャプテン”と呼ばれていたシンガポール人だった。まだ、電子ブローキングが出現する前で、ダイレクトディーリング(直取引)で銀行同士の叩きあいが多かったので、相場の心理を読めるか否かが大きく影響した。
なぜか僕のキャリアの中で、お世話になってきた諸先輩方は軍隊あがりの人が多く、“戦場”をかいくぐって来た人間は相場にも強いことを知った。マーケットにおける“駆け引き”のみならず“生きるか死ぬか”もまた、キャプテンから学んだことだった。
(中編に続く)
*2011年09月05日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】常に“チェンジ”を求めて
【中編】人との出会いがキャリアを構成
【後編】サムライとしてNo.1でいたい
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