「“押し引き”が勝負の極意」 ―今井雅人 氏 [前編]
■手に負えないガキ大将
子供のころは、わがままで自尊心の強いガキ大将のいじめっ子。本当に大変なやんちゃ坊主だった。小学校の授業中に、気に入らないと教室から出て行ってしまったり、教壇に背を向けてずっと座っていたりなんてことを平気でしていた。テストは1番なのだけれど、ふざけていて不真面目だから通信簿は最悪といった具合。
こんな僕に両親はホトホト手を焼いたらしく、ガス抜きのために5年生の後半から剣道を習わせた。こういった自己中心的な性格を直すために、今まで生きてきたような人生だと思っている。
僕が通っていた中学で教鞭をとっていたこともある父は、僕にも教員になって欲しかったようで、自分自身も最初はそのつもりだった。しかし、途中で裏切って違う道を選択してしまったので、弟からは、兄貴の代わりに犠牲になったと、ことあるごとにボヤかれている。
中学校に入学して、野球かバスケットをするつもりでいたのだが、仮入部で剣道部をのぞいたら、3年生に「他の部に行ったら、負け犬だぞ」と言われたことにカチンときて、そのまま剣道部に入部してしまった。剣道は嫌いだったのに….人に乗せられやすい性質(たち)でもある。
中学校に入っても、相変わらず勉強せずにいたのだが、統一試験で順位が発表されることを知り、慌てて1週間勉強してみたら、学年で5番。1番ではないので大大大不満足。負けん気も人一倍だから、火が付いて猛勉強を開始した。いったんスイッチが入ると死に物狂いでやる。とはいっても、それがなかなか入らないのだが。1年生最後の試験で1番になって、以来卒業まで一度も1番から落ちることはなかった。
高校は、進学高である名古屋の東海高校に入学した。下呂温泉からさらに十数キロ入った山の中にある実家から出て来て、名古屋で下宿することになった。高校に入学したとたんに“やる気”はプチンと切れた。毎日5~6時間勉強していたのがウソのようだ。代わりにスイッチが入ったのが麻雀だった。下宿では麻雀が盛んだったので、仲間に加わるのもごく自然の成り行きだった。
麻雀好きの父が家でしょっちゅう卓を囲んでいたから見慣れてはいたが、それまで実際やったことはなく、ルールもわからないから最初はいいカモにされていた。悔しくて、1年ほど一生懸命やるうちに、彼らを負かす腕前になってしまい、ついには浪人中、雀荘のアルバイトと代打ち(両親には内緒)で稼ぐようにまでなってしまった。もう大学進学はやめて、麻雀で食べていこうかと本気で考えるようになっていた。
■勝負事は“押し引き”のバランス
自分は、子供のころからトランプなどがとても強くて、賭け事に対する才能はあると思っている。どうしてかというと気が弱くて堅実な性格だからだと思う。意外にも、世の中は、勇敢でバーッと勝負しにいける人が成功するのではなく、ディーラーも含めて堅実な人が成功したりする。
今まで多くの部下を育てた経験から、また実際に相場で多くのディーラーを見てきて、最悪なのは、中途半端な人やただ無謀なだけの人であって、こういった人のほとんどが失敗している。つまり、勝負事とは、“押し引き(出し入れ)”のバランスの良さに尽きると思っている。僕は無理だと思ったら、スッと引く。押し引きが上手な人は良い成績を残せるが、それができない人が生き残るのは難しい。
周囲に忠告されたり、両親の気持ちを慮って、プロの麻雀師の道は諦めた。英語が好きだったから、英語の先生になろうと思って、上智大学(以下、上智)の英文科に入学した。当時、男性で英文科に入る人は珍しかった。
大学では、楽しい学生生活を送ろうと思ってテニスサークルに入った。練習すれば、上手くなるからだんだんとおもしろくなって熱が入っていった。合宿で朝5時に皆を叩き起こして練習し、朝食後にも練習しようと張り切っていたら、部長に呼ばれて、「君はこのサークルには向いていない。体育会に行ったほうがいい」と言われてしまう。
仕方なくサークルを辞めて、ブラブラしていたら、父が心配して、また剣道をやれと言ってきた。高校の間、サボりながらも剣道だけはずっと続けていて、県大会では7回ほど優勝していた。卒業のときに防具をあげてしまったのでもうやれない、と返事しておいたら、1週間ほどして下宿に新しい防具が送られてきた。「それ買ってやったからできるだろう」− 同封の手紙にはそう書かれてあった。
僕はあまりこれになりたいという強い意志や目的で生きてきているわけでなく、周囲に流されて、結果的にそうなっていることの方が多い。1年生の10月から剣道部に入って、結局、最後は主将になった。剣道は、三和銀行(以下、三和)の実業団でやり、大学のコーチをやって、子供を教えているうちに、気が付いてみたら7段になっていたという感じだ。
剣道がおもしろくなり始めたのは、大学4年から社会人になるあたりで、社会人になってからは一層おもしろ味が増した。その理由は、“駆け引き(技)”がおもしろくなってきたからだと思う。若いころは、勝敗はスピードが決め手のようなところがあったが、年齢と共に技に比重が移ってくる。実際、70歳のおじいさんや8段の先生と立ち会っても歯が立たない。持田先生というすごい先生いわく、相手がフェイントをかけようが何しようが、心が動かなくなるそうだ。いつか自分もその境地に到達できるよう精進を重ねたい。
■ひょんなことからディーリングと海外勤務
就職活動は、体育会の主将をしていたので、商社、証券、メーカー、銀行等、もうどこからも引く手あまただった。銀行はまったく眼中になかった。しかし、三和を訪問してみると、体育会系の主将クラスみたいな人間がバンバン出てくる。自分の持っているイメージとは大きくかけ離れた、全然銀行員っぽくない人ばっかりだ。これには驚いた。行内の雰囲気もどこよりも良かった。この会社だったら、おもしろい仕事をさせてもらえそうな予感がした。
入行して、世田谷支店に配属された。エリートコースの人は、都心の支店に行かされるのが一般的と聞いていたので、正直ガッカリした。融資を担当することになったが、暇な郊外店だから零細企業の手形を切ったり、住宅ローンの受付をしたりするぐらいしか仕事がなくて、5時になったらやることなくなってしまう。そのまま寮に帰ると、いつも一番風呂。楽だがイマイチ張り合いがない。自分の人生、これでいいのか心配になった。
暇をもてあまし、支店長(この人はエリートだった)の麻雀接待に同行すると、「強いな!」と感心され、「(雀荘で)働いてましたから」と言うと、その後ひんぱんにお呼びが掛かるようになった。支店長には、次は都心の支店で営業だぞ、と言われていて、ホッとしながらも、海外は行ってみたいですね、と何となく話したりしていた。
この支店長が本部の人事部副部長に栄転してしばらくして、電話がかかってきて、「おまえ、海外行きたいって言ってたよな、麻雀も強いし、ディーリングをやってみたらどうだ」と言われて、「何ですかそれ。いや、そんなのは別にいいですよ」と生返事していたら、1カ月ぐらいして、国際本部の研修生に抜擢されてしまった。
約3ヶ月間の研修が終了すると、国際資金証券部に配属され、金利のディーリングを行う外貨資金班に入って、ドル金利担当になった。そして、2年後に海外勤務の辞令が出て、シカゴに行くことになった。本来、僕はニューヨークに送られることになっていたのだが、シカゴにいた人がニューヨークに転勤したので、玉突きでシカゴになってしまった。
行くのだったら、当然、世界の金融の中心地ニューヨークの方がいいに決まっている。またハズレてしまったと、世田谷支店に配属されたときと似た気持ちになり落胆した。しかし、シカゴ支店の小さな所帯では、オールラウンド的に仕事をこなさなくてはならなかったので、多くのキャリアを積むことができ、結果的に良かったと思っている。
(中編に続く)
*2011年07月12日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】勝負事の才能が開花
【中編】天才は無理でも秀才になる
【後編】相場と政治のつながりの中で
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