「終わりなきマーケットをイメージし続ける」 ―伊庭剛 氏 [中編]
■いつかはチーフディーラー
下働きをこなすうちに、トレーニーとして何が最も重要かがわかってきた。それはいかにして地雷を踏まない(先輩や上司に怒られない)ようにするかということと、同じことを要領良く早くやるかということだった。ただし、ズルして結果やクオリティーが落ちるのだったら駄目で、そこは頃合いが大事になってくる。少しだけ数学の問題を解くプロセスにも似ている。
先輩方は多忙で、懇切丁寧になど教えてはくれない。仮に教えてくれたとしても、最初の間違いは許してくれるが、まったく同じことをもう1回聞きなおした上で更に同じ間違いを犯すと当然のことながら次はない。毎回地雷を踏んでいては身が持ち堪えられないのだ。自然と日々繰り広げられる悲惨な光景の中から、なぜ間違えるのか、どうやったら怒られなくなるのか、という答えを一日も早く見つけ出さなくてはならないことになる。
褒められることはまずなかった。東銀為替資金部のトレーニーには、怒られても何クソッと思う負けん気の強い人やずっと落ち込まない人が向いていたかもしれない。少なくとも「褒めると伸びるタイプ」では、間に合わないのである。実は相場に対しても、同じことが言えるのだと気付くのはかなり後になってのことであった。
同じ雑用をやらせていても、要領の良い人、悪い人、いい加減な人、丁寧な人がいる。細かいことを言わなくてもできる人もいる。また言えば出来る人と、言ってもできない人がいる。極限に近い環境で様々な雑用をこなすうちに、人それぞれの個性が現れ、段々と区別がついていく。
後年、自分がチーフディーラーになってチームマネージをするようになると、チームを効率良く運営するために、各々の適正を見極める必要が出てきた。こうした雑用といわれる日常業務の“捌き方”を見ることの重要さがようやく分かった様な気がした。あの当時の日々は単に辛いだけではなかったのかな?と自分を納得させる意味でも。ただ、正直二度度と戻りたくない日々ではあるが。
そんなつらい日々を支えたのは、自ら志願して為替資金部の門を叩いたんだという自負と遥かかなたにあった目標を見失わなかったからだと思う。自らの決断に対して、一切言い訳はしないと決めた。そして、どうせ入った以上、いつかはチーフディーラーの席に座りたい!との志を、必死に自分に思い込ませることで、モチベーションを維持した。まさに「いつかはクラウン」のような気持ちであった。
東銀為替資金部のすごいところというのは、いい意味でタテ社会が確立されていたことだと思う。単に上下関係だけで押さえつけるのではなくて、誰もが認めるような人が必ず上席に居た。上からの指示には素直に納得できたし、上司やチーフディーラー、花形といわれたドル円ディーラーなど、いつかはあの人のようになりたいと憧れる存在、具体的な目標が常に目の前にあった。
■名前負けはしたくない
少しずつ要領が良くなってくると、それに伴い余裕も生まれてくる。そうなってくると、ディーラーとコミュニケーションする時間も増えてくるので、言われたことばかりやっているのではなく、段々とディーラーの考えていることや次に自分がなすべき事が自然とわかってくる。
当時のディーリングルームはチーム力が勝負の分かれ目であり、ディーラーといえども優秀なアシスタントがついてないと、自分の相場観だけでは儲けられないような時代だった。僕の“師匠”であり、当時のチーフディーラーであった中川淳さん(この人も一生頭が上がらない人の一人)が、ディーラーの収益の7割がチームやアシスタントの力とおっしゃっていたことを思い出す。“一人前のアシスタント”になってこそ、次の道が開けるのだ。
もちろんアシスタントが上手いからといって、必ずやディーラーとして大成するわけではないが、ディーラーとして大成した人は、おそらくアシスタントをやらせても完璧にこなせるのではないかと思う。十分条件ではないが、必要条件なのだろう。
自分のディーラーとしてのデビュー戦は、休暇中だったディーラーの“代打ち”みたいな形で巡ってきた。“ルーキー”はガチガチに緊張していて、周囲は「100本呼んじゃおうかな」、などとからかってくるが、笑う顔は引きつっていたかもしれない。クォートするだけで精一杯で、カバーすることすら忘れていた。結局ほかのアシスタントがしておいてくれて、損は免れた。こうやってちょいちょい代打ちから慣らして行って、次第に場慣れして行くようになり、“ディーラー”に成長していく。
94年に、東銀香港支店に異動になった。98年まで、香港の中国返還やアジア通貨危機といったアジアの激動をドル円ディーラーとして経験した。帰国後2年してからあの、“いつかは”のチーフディーラーに任命された。それまで憧れだった席にようやく着いたわけだが、新米チーフには重責が山積だった。銀行は合併を経て巨大になり、担当するデスクの取扱高も桁外れになっていた。ただ、トレーニーとして東銀為替資金部の門をくぐってから10年余りの経験を自信とし、かつて自分が憧れた存在に今度は自分自身がなれるよう努めようと鼓舞した。名前負けだけはしたくないとの思いは強かったように思う。
ある欧州系の銀行から東京の為替部門の責任者としてのオファーをもらったのは、チーフディーラーになって4年目のことであった。それまでも、時折こういった話をいただいてはいても、まだ東京三菱銀行(96年合併、以下東京三菱)でやりたいことが残っていたのでそこに到達するまでは辞めるつもりはなかったし、自信が持てなかったのもある。そもそもこの手のお話をいただけたのは、僕個人というよりは、東京三菱のチーフディーラーというポジションに対するものであったと正直今でも思っている。
いろいろ考えた末、この時は新たな目標にチャレンジしてみようとの思いに至り、オファーを受けることとしたわけだが、移籍するからには、期待されるポジションバリューと自分自身のセルフバリューとにギャップがあると言われないように、つまりここでも名前負けしないようにしなければとの思いが、新旧どちらの会社に対しても強かった。その気持ちは、現在の米系の会社に移っても続いている。
■結論が出ないマーケットでどう行動するか
為替ディーラーにもいろいろなタイプがあると思うが、ただ闇雲に大きなポジションを持って派手にガンガンやるのが偉いとは決して思っていない。今日はたくさん儲かったけれど翌日はその倍以上の損をしたりして、結局最後はチャラではどうしようもないと思う。
確かに、いつもコツコツと短打を狙う打者よりは、三振かホームランかみたいな打者の方がギャラリー受けはするかもしれない。しかし、為替に限ったことではないと思うが、ディーリングでは如何に余計な損失を抑えられるかという、いわゆるリスクマネージングの能力が最も重要なポイントであるというのが僕の持論だ。
マネージャーの立場からしても、ホームラン打者ばかりだと試合には勝てないし、三振の山ばかりでは目も当てられない。三振の少ない3割打者揃いであれば、作戦も拡がり、確実に利益の計算も出来る。コツコツと1日200万円ずつ積上げて、1週間経ってその人が1,000万円儲かっていたら、長い目では恐らくかなりの確率でこちらのほうが結果が残るはずだ。
為替ディーラーはみんな案外臆病で、少なくとも慢心している人は少ないと思う。この業界で生き延びてこられた人は、リスクの管理が冷静に出来る人。思い通りの相場展開とならなかったときに、決して人のせいにせず、客観的な分析から、損は損でちゃんと認められる人だと思う。そう謙虚になれる人のほうがディーラーに向いているといえるし、長続きするコツになる。
そうは言っても日々のディーリング業務では、頭で考えていては間に合わないことが多いのも事実だ。相場は待ってくれないのである。うろたえていては、行動が遅れてしまう。よくユアーズしてから、「ところで、みんななぜ売ってるの?」というような笑い話があるが、マーケットの動きに乗りながらでないと判断が出来ない場面も少なくない。
どんなに考えても結論は出ないということが相場の世界では非常に多い。例えばどう考えてもドルが下がるはずのニュースが出たとしても、皆がドルを一瞬買ったとしたら、相場は上がってしまう。神様であるマーケットが上がれば買いが正解となるのだ。買う人がいる、つまり相場は上がろうとしているのだから、まずはその動きをフォローしないと次の手が出ない。まず体でやって感じて、それから少し考えて、「あれっ?」と思ったら、マーケットが買いで盛り上がっているときに売り抜ければいい。
(後編に続く)
*2011年07月06日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】ディーラー修行の厳しさを知る
【中編】気持ち良いか悪いか、肌感覚を重視
【後編】わからない明日に常にチャレンジ
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