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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「淡々と勝負強く」 ―西原宏一 氏 [中編]

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西原宏一


(前編はこちらから)


■「湾岸危機」と「湾岸戦争」から学ぶ


 個人的に、最も印象的なイベントは、90年〜91年に掛けての、「湾岸危機」と「湾岸戦争」だ。90年8月にイラク軍がクウェートに侵攻した湾岸危機で、ドルが急騰した。このときはまさに有事のドル買いだった。直前まで、ドルショートにしていて、いきなりインベードしたとか聞かされても、どう解釈していいのやら。2円ほどやられた後で、ポジションをひっくり返して、逆に大きな収益をあげることができた。

翌年1月には、湾岸危機に続いて、湾岸戦争が始まった。戦争の火蓋が切って落とされる2週間ほど前から、ドルはジリジリ上がっていた。湾岸危機では、ドルロングですごく儲かったので、湾岸戦争のときも、押し目があっても、最終的には上昇方向だろう、と予想してドルロングにしていた。しかし、戦争が始まると、瞬間1円上がってからドーンと10円も暴落した。


湾岸危機と湾岸戦争の相場の違いはなんなのか。湾岸危機のときは、ほとんど誰も予想してなかったことなのでワーッと上がったのだが、湾岸戦争は既に予想されていたので、逆に、本当にそうなってしまうとものすごい勢いで利食いのドル売りが入ってしまったのだ。大きな損失を出してしまう破目にはなったが、このイベントで、相場は、「Buy the rumor, Sell the fact(噂で買って事実で売れ)」が基本だという、大きな教訓を得ることができた。

このときは、ドル円のボードを担当しており、ダイレクトディーリング(銀行間の直接取引、以下DD)を USD50mio単位で行っていた。ダイレクトディーリングは、ボクシングみたいなものなので、滅多打ちにされると調子を崩してしまって、攻めていけなくなってしまう。湾岸戦争の時は3週間程度のペナルティ(取引停止)を食らった後、冷静さを取り戻し、ディーリングに復帰した。


■打たれまくって打たれ強く


 自分は、DDとポジションテイクの両方をやっていた。この2つは、根本的に技術が違う。ポジションテイクは、自分の相場観で相場を張ることだが、DDの場合は、心理戦とスピードと玉をさばく技術になる。加えて、当日の流れ(フロー)を見て、そのときの相場の方向を予想する。

DD だと、他の銀行やお客からプライスを求められたら、必ず、両サイド(売値と買値)を提示しなくてはならないので、自分の相場観が正しくても、他の銀行に打たれて、たちまちポジションが変わってしまったりする。

例えば、自分がドルは上がると思ってロングにしているのに、お客にショートにされて、やられるということもあるし、ショートにされてしまっても、相場は下落して、儲かることもある。打って打たれての恐怖は、慣れと精神力で克服するしか方法がない。

自分がドル円のボードを始めたとき、多くのドル円ディーラーの中で、最年少であり、外銀、邦銀問わず多くの先輩ドル円ディーラーに、あまりにも打たれまくられたので、逆に、打たれ強くなったのだと思う。


僕は、外銀の中で唯一50本(5,000万ドル)グループに入っていて、当初DDでクオートをしながら自分のポジションテイクもしていた。ただDDとポジションテイクを同時にしていると両方がぐちゃぐちゃになってしまう。自分の相場シナリオで、上がると思って買いポジションを50本持っていても、お客さんが何百本もドルを売ってきたら自分もドルを売らざるを得ない。この50本のロングだけは残しておこうとしても、カバーのために200本売っているのに、コアポジションを残していても仕方がないからだ。

従って、8時半ぐらいからクオートして、5時になったらナイトデスクに渡し、ポジションテイクはその後から行う形に戦略を変えた。邦銀のディーラーさんは、重要な経済発表があるとその時間まで相場をずっと見ていなくてはいけないが、シティはシフト制になっていたので、あまり疲労を感じずに集中力も散漫になることはなかった。

自分の部下に対して、ディーリングの仕方は、いちいち細かいことは言わないでいた。言わないというよりも、そもそも僕だって教えてもらっていない。性格もあるし、人によってやり方が違うのは当然のことだ。

ディーリングはあくまでも各々、自分の相場観と自分の判断で行うのが基本。例えばチーフディーラーは、数日単位で持っていて、50銭落ちた後、最後は2円あがればいいというスタンス。若いディーラーは、20銭自体を取りにいったりもするので、戦略が違うわけだ。
そこであまりに相場の流れが明確なときは、例えばドルロングにするな!というアドバイスをする程度だった。それに、デイリーリミットやマンスリーリミットが決められていて、組織のリスク管理体制が整っていたことも大きい。

自分のスタッフは、その枠内でルールさえ守れば思い通りトレードしてもらえればいい組織だったわけで、ディーラーとして働くにはかなり恵まれた環境であったと思う。


■「男」は「営業」!


 12年間のシティにおける7年間、異例に長くドル円という通貨を担当していた。ディーラーになろうと決めた当時思い描いていた通り、いやそれ以上にやりがいのある充実した日々の中で、何かを忘れていることに気付いたのは、30代も前半を過ぎたころだった。

自分は海外で仕事をしたかったはずではなかったか。残念ながら、他のシティの支店にはチーフディーラーや、ドル円ディーラーとしての空きはなく、いろいろと道を模索しながら、きっかけを得てドイツ銀行(以下、ドイチェ)ロンドン支店のジャパンデスクに移籍する。そこでは日本人は自分ひとりであるため、ポジションを持つのに加えて、日本の顧客を担当して欲しいと要請されて、少し戸惑った。それまで営業をやったことはなかったからだ。

背中を押してくれたのは、父の、「男は営業」だから営業をやった方がいい、の一言だった。父はもともとエンジニアだったから、営業とは無縁だったが、関連会社の社長になってから、立場上、おのずと営業もやるようになって、仕事は拡大していた。説得性のある言葉だった。


確かに、為替の世界でも営業も経験している人は、いろいろなジャンルの人とも知り合いになり、為替のみならず金融全般の知識が増え、最終的には為替に対する見方も深くなっているとおもう。実際、現在の自分があるのは、ドイチェで、ディーリングだけでなく、営業もやっていたからだと思うところが大きい。ロンドンやシンガポールのヘッジファンドとの交流もこういったところから発生している。

FXを通じて知り合った個人投資家の中には、とんでもなく儲かっている人もいる。こういった人たちは、当然のことながら、ヘッジファンドのコネクションなどないわけで、共通している点は、ちゃんとチャートなどの勉強をしていて自分のやり方(個人の場合は、最終的にチャートだと思っている)を見つけているということと、ここ一番の勝負時に勝負できているような人たちだ。

(後編に続く)

*2011年04月25日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】自らディーラーの道へ
【中編】相場の教訓を糧にする
【後編】ヘッジファンド運営を目指して



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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