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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「淡々と勝負強く」 ―西原宏一 氏 [前編]

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西原宏一



■子供の頃から海外志向


 父が住友金属鉱山に勤務していたので、住友グループの企業城下町として有名な愛媛県の新居浜市で生まれた。当時は、社宅で暮らしていて、東京や大阪から親の転勤で来ている遊び仲間や同級生が多かった。

僕が、小・中学校の頃に、父が単身赴任していたインドネシアやナイジェリアの話はたいへん興味深いもので、大人になったら、世界をまたにかけるような仕事をしよう!そんな夢を描くようになったのも自然の成り行きだった。


父は、現地で他の人が、病気でバタバタと倒れていっても、ひとりだけ大丈夫だったほど、心身とも飛び抜けてタフな人であった。特攻隊で徴兵されたため、戦争があと3週間ほど長引いていたとすれば、自分はこの世に誕生することはなかったのだと親戚から聞かされるたびに、不思議な感慨に捉われてしまう。

小学校時代は、リトルリーグで活躍し、学級委員などもしていたが、ごく普通の学生生活。

父の転勤で、中学校時代を岐阜の田舎で過ごした。その後新居浜に戻ってきたらガクンと成績が落ちており、高校受験に向けて必死になって勉強し、なんとか地元の進学校に合格できたときはホッとした。高校時代は、バンドを組んで活動するなどし、勉強はほどほど。でも、英語だけは、海外で仕事をするために必要なんじゃないかと、他の教科よりはまじめに取り組んでいたと思う。

ところが、大学受験においては、希望していたミッション系の外国学部英語学科は地方で勉強していたような受験英語とは別世界で合格できず。今、帰国子女である自分の子供たちを見ていると、リスニングとスピーキングができるとやはり強いなと思う。まったく持ってうらやましい限りだ。

結局、青山学院の経営学部に入学した。生活費以外のお金を稼ぐために、レストランや喫茶店、エキストラや家庭教師などのアルバイトをして資金調達した。学生時代に海外に行こうと考えており、渡航費用を捻出しようとしたがなかなかそうした資金は貯まらなかった。


■為替のリーディングバンクのディーラーに


 大学4年生になって、やっと願いは叶い、一度は行ってみたい国のひとつだったアメリカのロサンゼルスに1カ月間、語学留学をした。このときアメリカンエキスプレス(以下、アメックス)のトラベラーズチェックを初めて利用したのだが、それまではアメックスの存在など知る由もなく、アメリカに行っていなければ、アメックスに就職しようとも思わなかっただろう。

学生時代から、為替ディーラーに興味はあった。ディーラーという職業が、子供時代から描いていた、世界を相手にする仕事になるのではないか、と漠然と思っていたからだ。ただ、大きな損失を出すと即クビになると聞かされていたし、その当時は外資系銀行に入った先輩も身近にいなかったため、結局、銀行も傘下にもっているアメリカンエクスプレスに入社した。

アメックスといっても、アメリカンエキスプレス銀行(以下、銀行)ではなく、当時自分が配属されたのはクレジットカード部門だった。当時のアメックスは、ゴールドカードを日本で拡大しようとしている時代だった。


ところが、いよいよ、銀行のディーラーに応募しようと思った矢先、アメックスは、リーマンブラザーズを買収し、銀行と証券は共存できないので、銀行の方を潰すことになってしまった。ディーラーになりたいという気持ちは高まっていたので、他の銀行に機会を求めるしかない方法はない。そこで、シティバンク(以下、シティ)のディーラー募集に応募して、幸いにも受かることができた。

シティでは、ディーラーで入ったとしても、基本的に銀行員として採用するので、失敗してもクビではなく異動も可能。ただせっかく為替のリーディングバンクであるシティに入れたのだから、なんとしてもディーラーとして生き残ろうとした。シティバンクの12年間はずっとそう願い続けて、ディーリングに励んできたつもりだ。


プラザ合意の起こる3ヶ月前の85年6月に東京支店に入行し、インターバンクという部署に配属になった。新人研修はあるが、実務は教えてもらえるわけではなく、基本的なことを大学でまじめに勉強していなかったので、「おまえ、こんなこともわからないのか!懲戒免職だ!」と怒鳴られたりして、荒っぽいディーリングルームの雰囲気に慄いた。

ほどなくして、人手不足のため、ディーリングをさせられることになる。為替市場の黄金期が始まりつつあり、入行当時50人足らずだった、ディーリングルームの人員は、すぐに倍増した。円高進行時代にディーリングをスタートしているので、ドル円とは落ちるもの(実際毎日落ちていた)、という感覚でトレードしていた。

3~4ヶ月、ナイトデスクを担当したときに、少しポジションを持たせてもらい、ロンドン時間にドル売り参戦し、翌朝、ドル円は1円程度落ちているので買い戻すといったことを繰り返した。ドルは売れば儲かるのだから、楽なものだなと思っていたし、もう少し前に入行していれば、もっと多くのポジションを持たせてもらえるのにと、と先輩達をうらやましく思っていたくらいだ。


■心理戦で生き残る


 ナイトデスクで収益を上げることができたので、上司に、「西原、ご褒美にギリシャに行かせてやる」と言われて、舞い上がったが、ご褒美とは名ばかりで、実は「トレーニング(研修)」だった。聞いたこともないような、ギリシャの田舎(未だにこの場所がどこだったか不明)にある研修センターで、試験に合格しなかったら、帰りのチケットはないぞ、と脅かされながら、1ヶ月間カンヅメになって勉強させられた。こういったトレーニング関係の充実ぶりは、いかにシティが人を大事にし、それゆえに人材育成に力を注いでいるかを表していると言える。

新卒と中途採用の同期入社組の中で、僕は最年長だったので、もっとがんばらねばという気持ちから、ひたすら仕事に励んだ。そのせいか、入行3年目で、ボード(顧客の注文をさばく)で、ドルスイスを任されることになった。このときは心底うれしかった。ただその当時ドルスイスをやっていたスイス系以外の銀行のディーラーが、ぼろぼろになって辞めていくという話もあり、ドルスイスディーラーとして収益をあげられないと、シティで生き残れないのだろうなと思いつつ、毎日ドルスイスと格闘していた。


ドルスイスは、東京では実需の玉が全然なかったので、シンガポールのマーケットが主戦場。最初は、シンガポールのディーラーのいいカモにされていて、悔しくてたまらなかったが、その内に、スイス系銀行シンガポールから、20本打ち込まれると、すぐ後に彼らが下で、ビッドで待っていたりすることもあるのがわかり、トレーディングのやり方を工夫するようになった。相手も実弾がないのに、売っている場合もあることなどが徐々にわかり、フェイクをかける(だましの売買)をすることも覚えた。

また、スイス系銀行のシンガポールに対抗するために、実弾を持っているシティ・シンガポールと仲良くして、随分と助けてもらった。後に、僕がドル円ディーラーになると、ドル円はシティ・東京が、玉を持っているので、彼らが困ったときは僕が助ける番になった。助けられたら、助け返す、自分だけよければよいというものでは決してない、というのが為替市場で痛感することだ。

自分は、のんびりした性格なのだが、ことトレードに関しては、このドルスイスというマーケットで鍛えられたのが大きいのではないかと思っている。また、先に述べたように、フェイクをかけるとか、相手の裏読みするような心理戦に強くなった。マーケットで、生き残ってこられたのは、そのおかげではないだろうか。

(中編に続く)

*2011年04月25日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】自らディーラーの道へ
【中編】相場の教訓を糧にする
【後編】ヘッジファンド運営を目指して



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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