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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「通貨オプションとの出会いがすべて」 ―飯田和則 氏 [中編]

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飯田和則


(前編はこちらから)


■為替予約課で奮闘する


 当時の財務部長で後に副社長になられた杉原明さんが、ほとんど予約課に入り浸りだったので、財務部における予約課は重要な位置を占めていることは理解していたが、自分の中ではあまり気乗りのしないセクションだった。そんな予約課に配属が決まったときには、どうしようかと思ったが、予約課のメンバーも代替わりし、優秀な諸先輩が集められていたので、選ばれたというプライドがくすぐられて、すぐにやる気になっていた。更に、管理部門でありながら、唯一のプロフィットセンターという位置付けにも惹かれていた。


商社における予約課の主な仕事は、基本的には商業取引(実需)で発生する外貨建ての債権債務を為替リスクをヘッジしつつ収益をあげることだった。たとえば、営業から輸入予約が何千万ドル入り、輸出予約は何百万ドルしか入ってこない場合、ポジション(外貨のバランス)が1,000万ドルショートしているならば、その分をどこかの時点で買っておかなくてはならない。輸出予約と輸入予約が同時期に入れば、いわゆるMarry(マリー)といってBid/Offerのスプレッドと手数料が丸々儲かる仕組みであり、社内予約では手数料が1ドル当たり30銭とかもらっていたので、予約課で収益をプールすることができていた。

円高が進行しそうだと予想したら、ショートカバーせずにオーバーナイトで持って、円高になったところで買い戻すようにする。商社では、ドルが下がると予想したら、輸出予約を先にして、輸入の方をわざとずらしてポジションを作る「リーズアンドラグズ」の手法も活用された。為銀では持ち高規制によりオーバーナイトポジションは極端に少ない金額でしか認められていなかったが、商社はそのような規制の枠外にあり、比較的大きなポジションを持つところが多かったように思う。


ようやく実需原則が撤廃されようとする中で、それでも少ないながらも自己ポジションがあり、P/L(損益)を持って収益を追求していく大きな喜びと、自分たちは会社の業績に貢献しているという強いプライドに支えられて、予約課全員で奮闘するやりがいのある毎日だった。

予約課では、相場に対して毎日ありとあらゆる議論を重ね、ファンダメンタルズやテクニカルを駆使して切磋琢磨しながら相場を張っていた。財務部長の杉原明さんは、相場が大好きで、相場の神様というか怪物のような人だった。とにかく、胆力がすごくて、でかいポジションを平気で持つ。それを部のポジションという形で管理していたので、課員全員が杉原さんの手足となって動かざるを得ない。


■ベルギーで自由闊達に仕事


 杉原さんによって学んだことは非常に多い。たとえば、GDPを予想させる。GDPの予想はエコノミストの専管事項であり、数字だけを挙げるのであれば簡単だが、過去四半期ごとの消費や雇用データ、そして鉱工業生産などの経済指標を総合的に分析して、当日、ひとりひとり発表をさせる。数字が当たるかどうかが問題ではなくてそのプロセスを通じて本質を見抜く訓練もさせてもらった。

杉原さんは、長めのポジションを持つ代わりに何百ポイントという大きな収益を狙っていた。相場はまず半年先を考えて、その後3カ月先を考えろ、3カ月先を考えたら1カ月先を考えろ、1カ月先を考えたら1週間先を考えろ、1週間先を考えたら、今日、今現在を考えて判断しろ、というやり方をしていた。僕たちもこの考え方を徹底的にインプットされたので、自然と大局に立って、大きな流れを狙うディーリングスタイルになっていった。


営業部門では後に専務になる吉岡克己さんも非常に相場感覚に優れていて、杉原さんとは対照的に短期トレードが得意な人だった。このように、上層部自ら率先してポジションを持つので、為替ディーリングに関しては商社の中でも、日商は相当アクティブにやっていたと思う。日商は、商社の売上高ランキングでは6番目だったが、戦闘意欲に満ちた野武士集団という風土に培われて、いずれ、三菱商事や三井物産と肩を並べたいという上昇志向が非常に強かった。

そんな最中でのベルギー現地法人への赴任命令は晴天の霹靂だった。財務部門で保守本流と言えば、普通はロンドンかニューヨークが転勤先だったからだ。しかし、災い転じて福と成す。ベルギーでは思う存分仕事がやれた。当時は、ロンドンで銀行の免許がなかなか取れない金融機関が多く、ヨーロッパで拠点を持ちたい邦銀にとってはとりあえずベルギーで免許を取得しておくという流れがあり、地銀まで含めると邦銀の数は非常に多かった。


僕は、それらの邦銀から低利の資金を借りて運用することを考えた。そうすると、いろいろな金融取引が行えたからだ。当時は多くの日本企業が起債するスイスフラン建ての社債をアセットスワップして、固定金利から変動金利(LIBOR+α)を受け取るといった金融取引が盛んで、日系企業の信用リスクを取る代わりに、高いスプレッドの運用をすることができた。マルク(高金利)スイス(低金利)でキャリー取引も実践した。長期運用の円資金を(円金利上昇を予想した結果)変動金利から固定金利にしたり、それを後に金利スワップしてLIBOR−αの調達金利に転換するなど、かなり機動的な運用も行った。

本社からは、もっと会社の資金繰りなど財務本来の仕事をするように注意されたが、資本市場課時代のトレジャリー(米国債)の運用経験等も思いっきり活かせるし、寛大な上司に恵まれたお陰で収益追求に没頭することができた。その結果として、3億ドル程度だった現地法人のアセットを5年半で10億ドルまで増やしていた。さすがに一人で調達から運用までこなすには多額なアセットとなり、急遽東銀ベルギーから人を斡旋してもらったほどだ。商社現地法人の中では、外地金融があったので名目の売上においては、常に丸紅とナンバー1かナンバー2を競っていたが、収益面でも確実に上位に押し上げることができた。


■日商岩井は果敢にオプションを売る


 十二分に仕事を堪能したベルギーから、古巣の為替業務部の為替予約課に戻って命じられたのは、通貨オプション(以下、オプション)担当だった。金利オプションはかじったことはあっても、通貨オプションはまったくの初心者。ガンマだ、ベガだ、セータだ(オプション取引のリスク指標)などのギリシャ文字が出てきて往生した。大沼君から引継ぎを受け、伊予部君という若手で優秀な部下に作成してもらった資料を読んでも、理論を説明されても、文系の頭では中々理解に苦しむ毎日。いったい自分は、オプションをやれるのかと大きな不安に駆られたが、オプションもスポットの為替取引と同じものと腹をくくった時点から目の前がパッと開けたことを思い出す。


僕が為替予約課長としてオプションを本格化させた頃は、基本的に「買い」が主流だった。というのは、オプションの買いというのはプレミアム(オプション料)を払って売るか買うかの権利を購入するので、リスクはオプション料だけに限定される。逆に売る場合は、相手からオプション料を先に受け取ることができる反面、そのリスクはオプション料を返したら、ごめんなさい、もうこの取引はなかったことにしてくださいというわけにはいかず、無限大に膨らむというのが教科書での説明だ。

従って、売りを率先させる会社はほとんどなかった。商社の中でも、為替のディーリングが非常に活発だった伊藤忠ですら、オプションは買いが主体だった。ところが、日商は与えられたポジションの範囲内であれば買いと同じように売りもどんどんやらせてくれた。

例えはよくないが、カジノなどはすべて胴元が勝つようにできている。ある局面ではお客さんがワーッと勝ったりするが、長くやっていたら、最終的には親が勝つ。オプションもこれと似ているところがあり、最後には売るほうが勝つ。保険だと思ってなら買ってもよいが、収益拡大の目的では買ってもうまくいかないということを僕は身に沁みてわかるようになっていた。

(後編に続く)

*2011年02月24日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】チャンスとプライドと
【中編】通貨オプションのパイオニア
【後編】「ガンマサプライヤー」から「個人投資家のサプライヤー」へ



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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