「通貨オプションとの出会いがすべて」 ―飯田和則 氏 [前編]
■子ども銀行支店長
母の実家がある茨城県のふるい城下町、下妻で育った。早世した父は、僕が小学校3年のときに逗子の療養所に入ってしまい、月に一度帰ってくるだけだったので、父親の記憶は断片的にしかないけれど、母や祖父母の愛情を受けて、すくすくと育った。特に、父親代わりの、元軍人で建設会社や商工会議所の役員をしていた厳格でいて、人望の厚かった祖父から受けた影響は大きい。口数は少なかったものの、曲がったことが嫌いで強い信念の持ち主であり、とにかく存在感のある人だった。
下妻小学校時代の最も輝かしい出来事は、「優良子ども銀行」の代表として、東京に招聘されたことだった。その昔、全国の小学校には、節約や倹約を学ばせる目的で「子ども銀行」(当時の大蔵省と文部省が管轄)というものが存在していて、児童は、毎月100円から数百円といった金額を自分の小遣いから預金していた。
特に積極的に活動している学校は「優良子ども銀行」として表彰されることになり、先生から任命されて下妻小学校の銀行係になっていた僕は、学校を代表して、校長先生、常陽銀行の下妻支店長、母親の付き添いで、東京に行く機会が与えられた。
下妻から黒塗りの車で向かった大蔵省で、当時の大蔵大臣、田中角栄さんから表彰状を授与された。ぎらぎらテカテカした田中角栄さんの赤ら顔は、子供心にも強烈な印象で、たくさんのフラッシュをたかれて、興奮も絶頂に達したことを今でもはっきりと思い出す。NHKの子供ニュースにも取り上げられたほどで結構強い運の持ち主だったかも知れない。その後で日銀を見学させてもらい、日銀総裁とも一緒に写真撮影している。
運動は大好きで得意だった。下妻中学時代は、野球部のキャプテンをまかされて、チーム作りに全力投球した。好きなことややりたいことについては、どんなことがあっても最後までやり遂げる意志や責任感は人一倍強かった。この信条はずっと変わらないでいる。長島茂雄選手に憧れて、野球選手として大成したいという思いは強かったから、勉強は二の次にして、野球に明け暮れた。
しかし、下妻第一高校に入学すると、現実を知るようになり、野球はすっぱり諦めて、音楽部に入部した。男子3人、女子2人でフォークグループを結成したり、夏休みにアメリカのネブラスカ州から来ていたクエーカー教徒の合唱団と一緒に活動して、高校生活は実に楽しかった。もっとも、白人の女の子がとてもまぶしく綺麗に見えてしまって気持ちはもっぱらそちらのほうにいっていたのだが。しかし、もっと英語を勉強して、いつかアメリカにいってみたいという気持ちが芽生えるきっかけになってくれたのも事実だ。
■チャンスに結びつける
大学は、母親一人なので浪人は避けたかった。もうすでに将来は海外に絡んだ仕事をしようと心に決めていたので、外語大も目指そうとしたが、そこまで学力が追いついてなくて、明治大学(以下、明治)に入学することになった。それでも、母や祖父母が喜んでくれたのでホッとした。
明治に入学すると、100年以上の歴史があり花形だったESS(English Speaking Society:英語部)に入部した。ESSは、ディベート、ディスカッション、ドラマといった3つのセクションに分かれていて、なんと100人を超える部員が在籍するマンモスクラブだった。英語クラブであっても、政治や経済のトピックスを中心にディベートやディスカッションをするので、自然と社会的な知識は身についてしまう。日本は核武装すべきだとか、円は切り上げられるべきかなどと、ディスカッションのチーフとして皆と喧々諤々議論したことが懐かしい。
実は、大学は、試験のとき以外はほとんど登校していない。それも、ESSに熱中するあまりのことで、学校でなくてESSを卒業したようなものだ。しかし、ESSに在籍していたことで、大変貴重な経験を積ませてもらっている。先輩のコネで、TBSの中にあった米CBS支局で、アルバイトをしていた時期に、フォード大統領がアメリカの大統領として初めて来日したため、本社のCBSクルーに連れられて一緒に大阪に取材しにいっている。「優良子ども銀行」に次ぐくらい興奮した出来事だった。
大学を卒業したら、いよいよアメリカに留学しようと思っていた。だが、ドル円が300円の時代に、母に頼むことなどどうしてできようか。そこで、ロータリー財団の留学試験を受けることになった。難関の試験なので、僕の能力だけでは受からなかったと思うが、幸いにして、下妻市のロータリークラブが僕を全面的にバックアップしてくれたお陰で、米国留学のチャンスをつかむことができたのだった。
チャンスは人にとって、平等にあるというのが僕の持論だ。そのチャンスはいろいろなところにある。それを見つけられ、自分の手で掴むかどうかが紙一重なのだ、とこのとき痛烈に感じた。もし、アメリカにいっていなかったら、その後のあらゆるチャンスにも結びつかなかったかもしれないのだから。
明治では、まともに経済学の勉強はしていなかったうえに、英語のハンディもあって、ネブラスカ州立大学大学院の2年間、週2日は徹夜した。奨学金は1年間に限定されていて、2年目は母に援助してもらっていたので、這ってでも卒業しなくてはならなかったから、必死の猛勉強だった。
中西部のネブラスカ大学はフットボールが強く、州民すべてが“(Corn)Huskers”(チーム名)の大ファンで、日本の半分くらいの面積で人口が2百万人程度だが、7万人も収容するメモリアルスタジアムが真っ赤に染まる(大学のカラーが赤)光景は今でも壮観で懐かしい思い出だ。親切で包容力のあるアメリカ人に接し、又普段の生活で1ドルの価値(購買力)はすごくあったことが印象に残っている。政治的にもBicentennial(米国建国200年祭)などがあり、勉強もしたが、古き良きアメリカを存分に吸収できたと思っている。
■日商岩井の財務部で
大学院を卒業して帰国したら、CBSの影響から報道関係か海外を駆け巡る商社マンになろうと考えていた。自分は、日本の大学を出ていて、アメリカの大学院を卒業したので、就職活動はそれほど難しくないだろうとタカをくくっていたら、不幸にもちょうど第二次オイルショックと重なり、思いのほか苦戦することになる。
日商岩井(以下、日商)の説明会に出席すると、年齢制限があると言われてしまい、普段はおとなしい僕もこのときばかりは、いろいろな人材が必要である商社が年齢制限するなんておかしいのではないかと食ってかかった。人事担当者は、確かにそのとおりだと言いながらも、日本の企業というのは、和を大切にするから、アウトロー的な人間がいるのは好ましくない、と言う。これを聞いてしまえば、もう望みはないと思っても当然だが、意外にも、面接の通知が届いた。
いったん面接の機会をもらえれば、しめたもの。自分のやりたいことを主張するだけだ。資源開発やプラントの人気部署を希望する人が多い中で、アメリカで経済学を勉強してきたから、ぜひ財務部でがんばりたいときちんと自己主張した。これが功を奏して受かったのだと思っている。
財務部は7つの課に分かれた、120〜130人の大所帯だった。その中で、資金課と為替予約課(以下、予約課)だけは新人を配属しない。何より経験者が求められ、即戦力となる人材しか必要としないからだ。僕は、輸出代金を回収するために書類をつくって銀行に持ち込む仕事が主体の外為輸出課に配属された。L/CやDP, DAの買取書類は次から次へと持ち込まれ、日本企業がどんどん外貨を稼ぐのを目の当たりにし、日本の将来が薔薇色に見えていた時期でもあった。
仕事の一環として、当日朝10時までに、インボイスを為替予約課(以下、予約課)に持っていくと、予約課は外貨の入出金のバランスを見ながら、10時の公表レートで為替のヘッジを行うのが基本なのだが、商社は、毎日の売上を現金化するという日商いの世界であるので、急遽大口(外貨建ての大口輸出代金)の船積書類が持ち込まれたり、大口の被仕向送金があったりと緊急を要する場合は、早めに円転する必要が生じる。
従って、営業サイドから10時を過ぎてからでも、輸出課にインボイスが回ってくると、外貨のポジション追加ですと、予約課へ書類を持っていかざるを得なくなる。すると、なんで今頃持ってくるんだとこっぴどく怒られてしまう。何もそこまで怒鳴らなくてもと思うが、10時の公示レートよりも円高に進んでいる場合は、スポットで売ることにより、(公示レート−Spotレート)マイナスになるので、その差分が予約課の損失になってしまう。予約課の人たちが嫌がる顔をするのも当然のことだった。
(中編に続く)
*2011年02月24日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】チャンスとプライドと
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