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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「生涯プロフェッショナル」 ―水上紀行 氏 [前編]

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水上紀行



■文武両道+白薔薇団


 和歌山県新宮市で生まれたので、紀州の紀をとって紀行と名付けられた。小学生までは体が弱く、3ヶ月入院することもあったが、自然に恵まれた和歌山の海や山を飛びまわっているうちに健康になった。

父が帰郷して小中学生相手の英語塾を独立開業したため、中学・高校は両親の出身地である静岡市で過ごした。水上家は、慶應元年以来、お茶問屋を営んでいた父方の祖父の時代までは素封家で、祖父がつくった静岡市の大坪という町が残っているくらいだが、やり手過ぎた祖父の積極経営が裏目に出て、財産はすっからかんになってしまった。


中学時代に、美術の先生に絵の才能があるから、芸大に進学したらどうかと強く勧められた。絵で食べていくのが簡単でないことぐらい中学生でもわかっていたので、その気にはならなかったのだが、ひょっとしたら、絵の大家になれていたかもしれないと、夢想すると楽しくなる。よく、テクニカル分析は芸術と表現されるが、チャートを描いていると夢中になるのも、この絵心と関係があるのかもしれない。

高校は、祖父から三代続けて県立静岡高校(略称、静高)に進んだ。中学時代のブラスバンド部(ユーフォニアムを担当)とは打って変わって、硬派な気持ちに突き動かされて、剣道部に入部した。文武両道をモットーとする静高は運動も盛んで、剣道部の稽古は厳しかったが、為替のディーリングにも活かされる「心技体」の基本を学ぶことができたと思っている。


高校時代は、「白薔薇団」というグループにも属していた。「白薔薇団」といういくぶんロマンティックな名称に反して、団員は男子のみ(静高は男女共学)。当時の高校生だからやっていることは無邪気なもので、会報をつくったり、授業が終わったら腹いっぱい食べに行ったりなどしていた。3年生のとき、硬式野球部が夏の甲子園大会で準優勝したが、受験生であるはずの「白薔薇団」団員一同、県大会から甲子園のすべての試合を応援した。決勝戦で広島商業に負けたときは悔し涙にくれたが、準優勝は未だに同期全員の誇りとなっている。メンバー10数名のほとんどが国立一期に入ったような優秀な連中ばかりで、彼らには、クラスや部活とはまた違う人間関係を通じて、大いに触発させられている。


■運動会で「組織論」を実践


 上智大学(以下、上智)を目指したのは、父の影響だ。父は霞ヶ浦の海軍航空隊で特攻隊になるための予科練の教育を受けていたが、終戦になって戻ってきて、まだ無名に近かった上智大学に進学した。カマボコ兵舎を改良した学生寮で同じ釜の飯を食った仲間たちとは卒業後も親交が深く、そうした友人関係が築ける上智大学に強く惹かれた。また、父の世界観を子供の頃からよく聞かされていたから、そんなに世界は豊かなのかという素朴な疑問と、見てみたいという欲求が、自然と芽生えていた。

世界を見るためには英語が話せた方がいい。外国語に強い上智大学に行けば、自動的に英語をマスターできるだろうと考えた。しかし、入学後、自分の専攻である経済学部経営学科では、外国語と接する機会がほとんどないことが判明。


結局、習うより慣れろ式に、1度目は史学部の歴史学のツアーに便乗してギリシャに1ヶ月行き、2度目はひとり1ヶ月ほど西側諸国をバックパッキングした。多くのハプニングや人と遭遇し、自分が想像した以上に世界はおもしろく刺激的で、海外への興味は一層つのるばかりだった。

将来は海外関係の仕事がしたいと思うと同時に、「組織論」を勉強していたためか、組織のマネージメントをしてみたい気持ちもあった。グリークラブという男声合唱団で部長をやったのもその表れだ。自分の希望と現実を踏まえて就職を考えたときに、最初に頭に浮かんだのは、メーカーだった。当時、ユニークなホンダやソニーに代表されるように、製造業は魅力的だった。金融は、他人のふんどしでやっているような印象が強くて、考えもしなかった。

幸い、あるメーカーから内々定的なものをもらえて、ホッとしていたのだが、クラブの先輩の結婚式の2次会で、三和銀行(以下、三和)に就職した先輩から、「上智からの就職説明会の参加者が少ない。出席人数を増やしたいので来てくれないか。」と懇願されてしまう。先輩の顔を立てるだけという軽い気持ちで行ってみると、カンヅメにされて、入れ替わり立ち代り色々な人が出てきて、入行を勧めてくる。


あまりの熱意に僕の心はグラグラと揺れ始め、この人たちとぜひ一緒に働かせてもらいたいという気持ちに傾倒していった。魅力的な人たちと会社の勢いと言うか活力に引き込まれてしまったのだ。

入行して、名門店と称されていた虎ノ門支店で、預金の窓口業務を経て輸出入業務(ドキュメンタリークレジット)に配属された。東大・一橋や早慶など名立たる大学出身者が多く、上智の僕はなんとなく肩身が狭く感じられたが、それはまったくの杞憂に過ぎなかった。虎ノ門支店には、優秀なだけでなく、良い人が多かった。上司や先輩達とよく飲み、よく仕事をさせてもらった。

次に勤務した銀座支店時代に住んでいた松戸の独身寮では、学んだ組織論が役に立つかと、寮の責任者を買って出た。マネージメント能力が問われたのは運動会だ。三和は独身者に対して全寮制をとっていたため、寮の数が多く、交流の一環として独身寮対抗の運動会が毎年開催されていた。その運動会で、我が松戸寮は万年最下位。寮生全員で、毎朝5時起きの猛練習が開始された。結果、なんと2位への大躍進!その夜は、寮に戻り、寮生全員で大盛り上がりのどんちゃん騒ぎ。興奮した寮生数名に担がれ、大浴場にたたき込まれる始末だった。


■ディーリングでリスクを取れ!


 そんなある日、突如としてロンドンのディーリングルーム行きの辞令が下った。為替のディーリング業務があることは、高校時代から知っていて、なんだかおもしろそうだな程度には感じていたのだが、三和に入ってからは、国内の法人営業などを担当すると思っていたので、この人事には仰天した。

一般的には、資金為替部でトレーニングをしてから行かされるのがほとんどであって、国内支店からいきなり海外勤務というのは非常にまれなケースだった。この稀有な人事は、例の運動会と何か関係しているのではなかろうか。独身寮を管轄しているのは、人事部だ。運動会での采配ぶりが評価されて、そのご褒美としてロンドン赴任になったとしか思い当たる節がない。


どんな理由であれ、いよいよ念願の海外が現実化したことで舞い上がりそうだったが、あまり喜んでばかりもいられなかった。人事部の次長が「三和銀行は、上位5行の中にいるとはいっても、一番ビリだ。他行と比べ、銀行ができた経緯などによる体力差(資金量)ではハンディがあるが、これからトップを狙うにはディーリングでリスクを取っていくしかない。だから、皆、そのつもりで、海外で頑張って欲しい」と、海外赴任の人たちを送別したときには、責任とやりがいを痛感して身が引き締まる思いがした。

三和は、ディーリング関係は、為替のみならず金利、円債、円・円スワップ(金利スワップ)も、ものすごいリスクを取ってやっていた。やっているのは若手が多かった。最前線の仕事は若手に任せるのが三和の特色だった。また、三和の上司は褒めて伸ばしてくれるタイプの人が多かった。ボリショイサーカスの熊の調教は、ムチで叩くのではなくて、芸ができたらエサを与えて、褒めてあげると、素直に覚えていくそうだ。部下も褒められるばかりでなく、応える能力のある人が多かったから、頑張ってやっていこうという良いルーティンができ上がっていったのだ。


当時、米国のバンカーズトラスト(以下、バンカーズ)の会長が、投機で潰れた銀行はないと言っていたが、三和も同じようなところがあって、実際、その後、全行上げて積極果敢に攻めに出て、その甲斐あって、業務純益で三和は都銀トップになった。

(中編に続く)

*2011年01月27日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】敢然とリスクを取りに
【中編】本質をつかめば相場がわかる
【後編】自分のプリンシパル(主義)を持つ



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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