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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「為替で人を知り、己を知る」 ―柳澤義治 氏 [前編]

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柳澤義治



■元々は「草食系男子」


 幼年期から大学生までは、今風に言うならば、「草食系男子」だったと思う。中学から映画鑑賞、高校で小説とジャズにハマっていた文科系タイプだった。学生時代は青臭く、小難しい映画ばかりみていたのだが、最近ではもっぱら爽快なアクション系を好むようになった。映画すらも、草食系から肉食系になっていることに苦笑してしまう。

趣味には全力投球しても、勉強は適当にやっていた。学習院大学に入学したものの、大学くらいは出ていたほうがよいだろうという程度の気持ちであったので、大学生活に大きな期待をしていたわけではなかった。しかし、偶然入部した放送研究部で、仲間たちとラジオドラマの製作に熱中する内に、大学生活はとても充実したものなっていった。


一風変った彼らに大いに感化されて、長年のレッテルだった「普通の子」の殻を破ることができたと思っている。とは言っても、生来、人と争うことを好まず、大声をあげることすらしなかった自分が、肉食系の代表のような為替ディーラーの仕事に就くことになるとは、この時点では、まったく予想もしていなかった。

就職は、海外と接点のある仕事をしたいと考えて、最初は、商社中心に会社訪問をしていたが、しっくりとは来なかった。結局、金融論のゼミにいたので、金融関係の中でも、当時は珍しかった外資系の銀行を受けることにした。外資系銀行であれば、預金集めもしなくて済むだろうと気楽に、考えただけのことだった。

結果的に、米銀2行から内定をもらえて安堵したが、外資系銀行の仕事とはいったいどういうものなのか、先生や就職課の人たちに尋ねてもはっきりとした答えは得られなかった。それもそのはずである。当時、外資系銀行に就職する人間は、多くはなかった。

両行の人事担当者に、具体的な説明をしてもらいに行くと、片方の銀行が「全ての部署をローテーションで経験してから、あなたの適正にあったところに配属します」だったのに対して、もう一方のバンカース・トラスト銀行(以下、バンカース)は「最初からディーラーとして採用します」と言う。恥ずかしいことにディーラーという言葉から連想したのは、車のディーラーだった。

どうしてなのか尋ねると、人事担当の方は、面接官のひとりだったチーフディーラーの坂本軍治さんが、何か気の利いた答え(自分は覚えていない)をしたらしい私を気に入ったからだと説明された。気にいってもらえて採用していただくのは非常にありがたいことだが、車のディーラーしか知らない私には、いくら坂本軍治さんという東京外為市場で有名な方がいて、その下で働いてもらいますから、と言われても全くピンと来るはずもなかった。


■ライオンに混じって狩り


 どちらにすべきか、ハムレットの如く悩み、夕食の席で、つい何気なく父親に話してみると、父から返ってきた「これからは、ジェネラリストではなくてスペシャリストの時代かもしれないな」という言葉が、自分にも腑に落ちるところがあり、この父の一言がバンカースへの入行を決心させ、ひいては、為替ディーラーへの道を歩みださせることになった。

父親に何か言われて、それに従ったことは、後にも先にもこのときを除いて記憶にない。メーカー勤めの父は、囲碁、将棋、麻雀など全てがプロ級の腕前だった。勝負に強い父のDNAを私が引き継いでいるのであれば、為替ディーラーとしてやってこられた下地は多少なりともあったのかもしれない。


バンカースに入行すると、1年半ほどオペレーションでディーリングの決済業務を行うことになった。いきなりディーリングルームでなく、準備段階としてオペレーションを勉強するように銀行が配慮してくれたのだが、このことが逆に不安を募らせる結果になってしまう。ディーリングルームからはいつも怒鳴り声や叫び声が聞こえてくるし、邦銀から出向している人たちからは、せっかく大学まで出してもらったのに、あんな仕事をするなんて何事だ、というような意見を何回も聞かされたからだ。

戦々恐々としながら、新米ディーラーの修行は、中山茂(チャーリー中山)さんのアシスタントからスタートした。当時、中山さんは20代後半で最も怖い盛り、ディーラーになりたいんだったら、自分のやっていることを見て覚えろ的に何でもやらされた。スパルタ式に、叩き込まれたことは数え切れないほどあるが、中でも、どんなときでも絶対に両サイドのプライスを出すことは徹底的に叩き込まれた。このことは、プロのディーラーにとって基本中の基本だ。誰もが口にすることだが、残念ながら、現実には、この当たり前のことを、本当にきちんとやっていた人は、それほど多くはない。

草食系気質では、狩りをしようとしても、うまく行かないことばかりで、出社拒否寸前にまでおいつめられたこともあった。そんなある日、「お前、取りあえず第一段階は卒業だからポンドをやれ」と、中山さんから指令が下された。心は躍ったが、実際、どのようなポジションを取ったらよいのかわからない。それに、その理由も明確にできない。まさにライオンの群れの中にただ一人放り込まれたような心境だった。

人間、自分が何をやっているかわからないほどつらいことはない。このときは、まさしくそんな状況だった。それでも試行錯誤を続けるうちに、いつの間にか、自分も一頭のライオンとして狩りに参加するようになっていた。


■チャーリー中山氏と堀内昭利氏の二人の上司


 バンカースは私が入行する少し前から、為替の市場取引を収益の柱にすべく、ディーリングに力を入れ始めていて、中山さんに代表されるように、優秀な人材を登用したのはそのためだった。為替のディーリングは、しっかりした顧客基盤、例えば、邦銀の本店であれば、膨大な客玉や、内部の信託勘定のオーダーなどで儲けられやすい立場にいるが、バンカースにはそういったベースが皆無だったから、リスクをとって必死に稼ぐしか方法がなかった。だからバンカースのディーリングチームは、本当の意味でプロの集まりだった。そのような銀行からディーラー人生をスタートできたのは、非常に恵まれていたと思う。

バンカース時代は、トレンドを捕らえるポジションテイキングではかなり儲けたが、日中の相場のアヤをとることは不得手だった。当時のBHFの堀内昭利さんは、日中の5〜10銭をとりにいくデイ・トレードの権化のような人で、短期の相場で右に出る人はいなかった。ぜひとも、堀内さんに学びたいと思い、中山さんと堀内さんが親しかった関係から、BHFに移籍することにした。


おかげで、相場の小さい動きを取っていくこともある程度までは上達した。ある程度というのは、相場観やディーリングスタイルはあくまでも堀内さん独自のものであり、他人が真似などできないからだ。やはり、自分の相場観を持ち、自分のスタイルを編み出してトレードするしかないのであり、またそれができなくては、ディーラーは務まらない。

(中編に続く)

*2010年12月13日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】ディーリングという狩りの中で
【中編】自分の相場観とスタイルを持つ
【後編】公平なマーケットに報われて



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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