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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「勝負の世界に魅入られて」 ―野村雅道 氏 [前編]

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野村雅道



■プロ野球選手の夢を抱く


 幼稚園の頃から親父に連れられて、南海ホークスの試合を観戦に、大阪の難波まで足繁く通っていた。当時、南海ホークスはパ・リーグで首位を誇っており、私は、野村克也選手の活躍に心躍らせ、プロ野球選手になる夢を抱く野球少年だった。以来今日までずっと野村監督のファンであり、同じように勝負の世界である為替に対しても、野村監督に学ぶところが大きい。

住友金属を定年退職した親父の子会社への転勤が決まり、中学2年で、神奈川県相模原市に引っ越してきた。本当は、転校するのはイヤだったが、物心ついてからやっている野球があればどこでも順応できるはずだと自分を納得させた。高校は野球で有名な東海大相模に進学したかったのに、中学の監督から良い選手が多く集まるからという理由で、東海大相模にそれほど引けを取らない湘南高校に行くよう進言された。しかし、残念ながら湘南高校で甲子園に出場する機会を得ることなく高校生活は終了する。


甲子園出場が果たせなかった悔いは残り、また大学で一緒に野球をやろうと誓いあってチームメイト5人と東大に入学した。東大野球部に入部してすぐに肩の故障に悩まされたときは物事にあまり動じない私もさすがにメゲてしまった。自分は打つのが得意だといっても野球は守ってこそおもしろいのだ。初めて、辞めようかなという考えが脳裏をかすめたが、代打でのヒットが認められて、出番が増えるようになっていった。

東大野球部は、曲がりなりにも強いとは言えないチームだったのだが、私が3年生のときに、東京六大学春季リーグ戦で、30年ぶりに最下位から4位に躍進した。惜しくも、このリーグ戦では、常に上位に君臨していた法政大学と延長15回まで戦って、4-3のサヨナラ負けを喫している。ひょっとしたら、勝てたかもしれないチャンスをものに出来なかったのは、東大が勝ち慣れしていなかったからだと思っている。それでも、江川卓投手から、3打数3安打、敬遠を含む3フォアボールを奪うことができたのは、自分史に残る思い出だ。

大学時代は、球場から500〜600mの距離にある合宿所に寝泊りしていたので、野球漬けの日々だった。その往復だけで、女性を見るチャンスすらなかった。たまに授業に出席するときは合宿所の黒板に「練習を休ませてもらいます」と記す。文科系の人は、授業に出席しなくても試験だけ受けていれば卒業できるから、そのまま経済学部に在籍していれば、楽できたはずなのに、なぜだかちょっとだけ向学心が芽生えてしまい、途中から教養学部のアジア学科に移籍して、国際関係論やアジアについて学ぶことにした。


■為替の神様に声をかけられる


 大学生活最後の大舞台である、秋季リーグ戦に集中するために、なんとしてでも夏休みに就職のメドを立てておきたかった。プロ野球の選手の夢はついえたが、もうひとつの開拓者になる夢は諦めていない。海外に出るには、外交官という手もあるが、肝心の学力が不足している。

どうしようかと悩んでいるときに、東京銀行(以下、東銀)にいる野球部OBから「海外に行きたいのだったらうちも同じ」と言われたのは僥倖のように思えた。東銀がどんな会社かも知らずに、単純に“海外”というフレーズにだけ反応してしまったのである。当時は、売り手市場であり、先輩と飯でも食ったりしたらそれでもう内定するような状況だった。自分も、先輩に寿司をごちそうになってしまい、それで決まり。早まったかなと若干の後悔もあったが、先輩の言葉を信じるしかない。

入行して配属されたのは、輸出入業務を扱う外為センターだった。大学時代とうって変って、男性100人に対して女性が300人もいる職場が楽しくないわけがない。のんびりと仕事をし、きっかり5時に退社できた良き時代はこのときだけだった。


入行して3年ほどすると、同期70人の内の、約3分の1が2~3年海外に派遣させてもらえる機会が到来する。トレーニー(若手海外派遣)の面接で「中国語やってたんだ」とか「中東に行く気があるか」と質問され一抹の不安に駆られたが、なぜだか行き先はニューヨークに決められた。いよいよ本当に海外に行ける!夢はスタートを切った。

東銀NYに着任して、人気部署である国際投資部に配属され、入社前から憧れていた中南米向け融資(プロジェクトファイナンス)に携わることになった。この仕事は、開拓者に近いような気がしたし、実際なかなかおもしろいものだった。次にマネー(資金課)に異動させられてドルの資金繰りなどを担当した。この頃から、シカゴIMM(国際金融市場)やオプションが始まったので多忙を極めたが、おかげで金融市場が勉強でき、後の為替ディーリングにおいて非常に役立つ。

本来であれば、皆にうらやましがられるくらい順調だった2年間で、NY支店の勤務は終了することになっており、次の赴任先も大阪支店の貸付課にほぼ決定していた。後は帰国を待つばかり、と安心していたら、為替課長の若林栄四さんに「お前、為替にこいや」と肩を叩かれた。今でもこのときのやりとりが鮮明に蘇る。「ありがたいお話ですが、もう帰国しますので」「そんなことはどうでもいい。やりたいのかどうかを聞いているんだ」。


■為替も勝負の世界だった!


 為替課からは、いつも悲鳴や怒声が聞こえてくるし、物が投げられたりする様子がうかがえた。後輩のトレーニーが自分の席に逃げてきたこともある。そんな有様を知っていれば、二つ返事というわけにはいかない。しかし、シンガポール支店時代、本店の為替の収益を上回るほどの実績を上げた東銀の為替の神様のような若林さんに、どうして「やりたくありません」などと返答できようか。結局、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

若林さんには、ある大学の相撲部か柔道部の人間が、最も為替ディーラーに適しているという持論があった。物に動ぜず、勝負強く押しまくる人間が欲しかったのだろう。東銀には、最もそれに近い存在は私をおいていなかったので、声をかけられたのだ。実際、ディーリングを始めてみると、野球部の経験が大いに活きてくることに驚いた。一般的な銀行の仕事で勝ち負けがつくことはそれほどないが、為替のディーリングは毎日勝ち負けがつく。まるで野球の試合のようだ。それに、野球の興奮と為替の興奮はとても似通っている。


結局、長屋佳彦次長(熱血漢で温かい人だった)と若林課長で人事部の辞令を変更してしまい、為替課でのトレーニー期間が半年間延長された。為替課に入ったときには、既に年下のトレーニーがおり、自分は雑用から免除され、純粋に為替に没頭できることになった。下積みのしんどさからいったら、東大野球部よりも、東銀の為替のほうが勝っていると思えるくらいだったから、自分の幸運に感謝した。

ほどなくして、若林さんからドル円のディーリングをやるよう命じられ、ほとんどの勘と少しばかりのチャートを頼りに開始したところ、大きな利益を上げることができた。そうなってくると、いっそうおもしろさは増してくる。国際投資やマネーも十分に興味の持てる仕事だったのだけれど、どちらも米銀にうまみがあるように仕組まれていた。

しかし、為替は平等に戦える。加えて、年齢に関わらず、儲けられる人が尊敬される実力社会。為替は勝負の世界なのだ。為替のディーリングは、自分に向いているかもしれないと思い始めていた。

(中編に続く)

*2010年11月20日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】野球の経験、為替で活きる
【中編】自分が相場というプライド
【後編】相場の本質を知って勝つ





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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