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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「ナイトスペシャリスト、マーケットと真っ向勝負」 ―福住敞綱 氏 [前編]

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福住敞綱



■18歳で為替に魅かれる


 自他共に認めるおとなしく真面目な、取り立てて特色のない子どもだった。学校の成績にしても、中の上もしくは上の下程度のレベル。ただし、試験直前の一夜漬けは得意で、うまい具合にいけば、突如として学年でトップになってしまうことがあった。

ひとりっ子のせいで、両親の愛情を一心に受けて育った。ゆえに、両親への孝行は当然のことだと思っている。病気がちの母の通院に付き添う必要がなければ、東京市場で希少な、ナイトデスク(夜番 以下、ナイト)のスペシャリストになれなかった可能性もあるのだから、重ねて両親に感謝したい。


必死で受験勉強に励んだつもりはなかったので、早稲田実業高校は、たまたま運良く入学できただけと言ったほうがよいだろう。高校生活においての白眉は、「外国為替」だった。為替が私の琴線に触れてしまったのは、おもしろそうな直感がしたからだと思う。当時は、一般人で為替に興味を持つ人などほとんどいなかったので、同好の士は望めない。「ひとり為替研究会」のようにして色々と調べる内に、いっそうハマっていった。以来30年間、為替の魅力に執りつかれたままでいる。

実際にどう研究していたかというと、毎日、シティバンク、チェースマンハッタンバンク、富士銀行などのテレフォンサービスに公衆電話などから電話をして、為替レートをノートに記入したりしながら、外銀の東京支店などを訪れて色々と質問したりしていた。高校生がひとりで窓口に来るなんてことはかなり珍しかったようで、銀行の人も驚いていたようだが、丁寧に応対してくれた。

高校生では外貨預金を持てなかったため、ドル預金口座は、両親の名義で開設してもらっている。ドル円は、77年に240円台から下落し始めていて、78年10月に175円まで下げた後反騰し、自分が興味を抱き始めた80年前半には250円程度まで戻るほど非常にボラタイルな動きをしていた。今と違って、貿易収支やアメリカの金利だけで、あっという間に数円動くほど相場の荒れ方は半端でなかったので、ドル預金では儲かったり、儲からなかったりした記憶がある。


■最初から為替ディーラーを目指す


 この時代は、早稲田実業から早稲田大学にエスカレーター式に進学できるわけではなかったので、早稲田に的を絞って、生まれて始めて本格的な受験を勉強し、幸いにして合格した。小学校から大学まで、地元の新宿区だったので、両親に大きな経済的負担はかけずに済んだ。

為替にはどんどんのめり込んでいて、就職活動に際して、為替ディーラーという職業を意識するようになっていた。邦銀に入っても、自分の希望どおりには配属されない日本企業の体質はだいたいわかっていたので、米銀を第一志望にした。米銀のランキングは、今でも、シティバンク、バンクオブアメリカ、チェースマンハッタン、JPモルガン、マニュファクチャラーズ・ハノーバーの順に諳んじられる。新卒で入行することになったファーストシカゴ銀行(以下、シカゴ)は10位だった。


TVで耳にした、評論家の竹村健一さんの、「他人と同じことをやっていては駄目だ」の言葉もディーラーを目指すのに後押ししてくれた。おとなしくて、何か特技があるわけではない自分は、パイオニア的な職業についた方がよいのではないかと考えたのである。

既に就職試験を受けていた銀行は、いくたびも面接を繰り返すばかりで、なかなか決まらず少し焦り始めていた。そんなある日、チームが結成されたばかりのシカゴに面接に行くことになった。坂本軍治さんの名前はよく知られていたから、その下で働いてみたい気持ちもあった。「為替ディーラーをやりたいんです!」と意気込むと、坂本さんと支店長に見込みがあると思われたようで即決で採用になった。私のように、為替ディーラーをやりたいなんて人が、当時いかに珍しかったということだ。実際、シカゴでディーラーとして採用された人間は自分ひとりだった。

84年4月に入行。いよいよ憧れの為替ディーラーとしての修行が始まった。東京の為替のディーリングでトップに立つ目標を掲げて、坂本さんが指揮を振るっていたので、目が回るように忙しくて、本当に、いつも目の下にクマを作っていた。15名程度の外国為替部で、一番ペーペーなので、やることは山ほどあり、他の新入社員とは比較にならないほど猛烈に働かされても、彼らをうらやましいと思うよりは、為替の仕事に従事できる喜びのほうが勝っていて、少しも苦にならなかった。

ただひとつ、最初に戸惑ったのは、大量な取引をさばいているのでどうしても間違わないわけにいかず、間違ったときに、自分の間違いが大きな間違いで深く謝らなければいけないなのか、それとも、すぐに修正できる小さな間違いなのか、判断できなかったことだった。だが、これも、時間の経過と共に対処できるようになり、実践での為替のおもしろさが日々増す一方だった。


■ナイトデスクの幕が上がる


 しかし、シカゴは、1年半で辞職する結果となってしまった。本店行きの研修が人事上の問題でドタキャンされたのが原因だった。為替とは無関係の事情だったから、坂本さんには、「なんでおまえはこんなことで早まるんだ」と引き止めていただいたが、自分はよほど頭に血が上っていたのだろう、今思い返しても、若気の至りとしか言いようがない。坂本さんはまさに親分という感じで私を鍛えてくれた、優しい人だった。

85年、プラザ合意の年に、東京支店を開設したナショナルオーストラリア銀行(以下、NAB)に、早急に来て欲しいと嘆願されて、シカゴを辞めた翌日に移籍するという慌しさ。支店開業要員が足りないと開業できなくなってしまうので、NABも人員確保に必死だったのだ。

NABでは、スコットランド人のチーフディーラー、ジョン・シーラーさんから、レートの出し方が遅いだの、もっとすぐにカバーしろだの、ひとりで夜残って危ないディールをするなだの、お寿司屋さんの職人のように怒鳴りまくられて鍛えてもらったが、彼もまた親分肌の良い人だった。


ディーリングルームは5名足らずなので、なんでもやった。シーラーさんとふたりで、東京よりも早いオーストラリア市場のメリットを活かして、7時ぐらいから積極的にレートを提供し、どんどん顧客開拓をした。私は基本的におとなしいタイプなのだが、飛び込み的にお客を開拓するのなどはまったく平気だ。若かったから余計恐れを知らなかったということもある。

円高方向で儲けやすいマーケットだったことや、今と違ってスプレッドがもっと大きかったから、開設から直ぐに大きな収益を上げることができた。このNABでの仕事ぶりが評価され、新規開業するナショナルバンクオブカナダにヘッドハントされたが、母の病状がおもわしくなく、ちょうどそこに、ミッドランド銀行(現HSBC 以下、ミッドランド)のナイトデスクをやらないかと誘われたので、移ることになった。

ナイトの仕事であれば、昼間母を病院に連れていける。このようなきっかけで、私の10年余に渡るナイトの経歴は、89年、ミッドランドから幕を開けて行く。

(中編に続く)

*2010年10月26日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】為替歴は高校生から
【中編】オールラウンドなナイトデスクの仕事
【後編】為替の職人をまだ続けたい



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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