「刺激に溢れた黎明期を駆け抜けて」 ― 尾形 美明 氏 [後編]
■ファイカルでの新たな経験
ちょうど10年間ケミカルにいて、次に米国ファースト・インターステート・オブ・カリフォルニア銀行(以下、ファイカル)に資金部長として移った。外銀の転職は、実績を挙げていれば、自然とどこからか声をかけてもらえるケースが多い。逆に自分から転職先を探す立場になると大変だ。気分的にも移籍の条件においても大違いということになる。
私は、ファイカルでもケミカル時代と同様な資金・為替操作を主体にやろうとしたのだが、過去10年間に東京市場は大きく変貌していた。規制が緩和されていて、市場の歪みは少なくなり収益機会は減少してしまったので、自己勘定での資金・為替操作と同時に、商社や生損保などとのカストマービジネスも重要な仕事になった。バブルの最中であり、生損保などは投資先を探すため、海外の市場動向に関する情報を求めていたので、本店からの報告などを翻訳して提供すると喜ばれた。
ファイカルで私が働くようになってから、数年して、ディーリング室の大改革が行われた。5名前後で資金・為替の業務をこなす形ではなく、ディーリング機能の飛躍的な拡大強化がなされ、為替取引、資金操り、円国債取引、デリバティブなどの各部門ができ、陣容もカルチャーも一変することになった。これは東京支店が利益を上げていなかったからではなく、本部の方針によるものだった。
変身したファイカルでの、個性的なディーラーの面々との出会いが強烈な印象として残っている。それまで遭ったこともないような人たちばかりで、自分に与えてくれた影響は大きい。ディーリング部門強化のために、チャーリー中山氏(東南アジア統括ヘッド)などバンカーズ・トラスト銀行(以下、バンカーズ)のチームが移籍してきた。米国本店と東京支店のディーリングルームは直接つながるようになり、支店長もディーリング部門には口出しできないというバンカーズ式経営となった。
最初に移ってきたチャーリー氏のボスだったギャリー・グレイさんとの為替取引で、未だに後悔することがある。彼のお客さん(確かGM)からの引き合いに、私がブローカーに相場を聞いたときのことだった。ブローカーが2~3回「チェンジ」(プライスの提示中に相場を出した銀行がレートを変更すること)と言い、私もそのつど「チェンジ」と言ってしまったため、ギャリーは怒って自分でダイレクトにGMにレートを出してしまった。
既にディーリングに熱心な銀行では、顧客からレートを求められた場合、狭いスプレッドで素早く相場を示すのが主流になっていたのだが、それまで自分のやってきた考えをベースにすれば、預けてくれる玉に対してベストを尽くすというやり方をしていたし、数千万ドルの引き合いに、自分のリスクで数ポイント開きのレートを出す必要はないと思っていた。それまで、ポジション・テイキングやスワップ・ディーリングのみでやってきていたので、市場の変化に対応できていなかったといえる。
また、数千万ドル単位の顧客の引き合いには、ブローカーに依頼するだけでは対応が無理なのである。大きな玉の引き合いを受けるには、ブローカーだけではなく、レシプロと言われる直取引のできる銀行との関係構築が不可欠となる。そのためには、内部でディーラーを支援する体制作りも必要になる。こういった体制を確立していると、大きな引き合いが来たときに、ディーラーが「コール」と声をかければ、数人が一斉にそれぞれの銀行を呼んで相場を聞けるようになり、顧客や相手銀行からヒットされれば、ほぼ同時に、カバーができるようになる。
このような新たな経験を得ることによって、市場の変化に対応できるようになり、その後、ファイカルで、ポジション・テイキング(リスクを取ること)、カストマーのチーフ、国債の取引などによって、幸いにもそこそこの利益を上げることができたのだった。
■自分の力量に応じてディーリング
チャーリー氏はポジション・テイキングでコンスタントに儲かっていた。彼はディーラーとして本当に凄腕だった。彼の下で東京のヘッドだった澁澤稔さんは、私と入れ替わりに入行されたが、スポット・ディーラーとしてピカイチだったとの評判だ。
ファースト・ナショナルバンク・オブ・ボストン銀行で一緒に働いた長尾数馬さんは、ジョビングで儲ける天才だった。長尾さんからよく話題に上っていた堀内昭利さんは「ギリギリまでやられていても、最後には取り返す人だ」と聞いている。ここぞというときの勝負の賭け方は、余人にはマネのできないもののようだ。
外銀のような派手さはないかもしれないが、邦銀で、自分が尊敬しているのは、元住友銀行の堀内貞雄さんだ。あの住友の為替ディーリング部門を何十年も支えた実績を持つ人で、一介のディーラー時代から、頭取から直接お褒めを頂くなど、傑出した実績を示し続けた。だからこそ、住友銀行が20年余の長い期間にわたり、為替ディーリングを堀内さんに任せたのだ。
ディーリングにおけるリスクの許容範囲は、ギャリーやチャーリー氏のように、1億ドルのポジションを持っても平気な人もいるが、私は、チャーリー氏にポジションをいくら持ってもいいと言われて、「3,000万ドルで十分です」と答えた。
損失を考えたら、リスクを大きく取る方がいいというわけでもない。競馬でも何でも、儲かったら、もっと買っておけばよかったなどと考えるが決してそんなことはないのだ。私は気が小さいので、大きなポジションを持てと言われても、自分の度量には合わないと思い辞退した。スワップ取引や資金繰りのミスマッチなら、いくら大きな枠でも歓迎だったのだが。
為替ディーリングで大きなポジションが許されるということは、そのポジションというリスクに見合った利益を期待されているわけで、回復不能なダメージを受ける前に止めておかないといけない。仮に、1億円の損失なら取り戻せても10億円は無理だ。それを取り戻すために博打をしたらろくなことない。競馬で負けたら、次に大穴に賭けるようなものになり、為替ディーリングでは極めて危険なことだと思う。
■物事をグローバルに見る習性
為替・資金操作を仕事にできて良かったと思うのは、物事を俯瞰的に見る習慣が養われたことだ。例えば、アメリカで何か起きたら、このファクターが世界にどう影響するだろうというグローバルな目で見て、それが市場にどう響くかと常に考えられるようになった。その意味では日本のニュースよりも、NHKの海外ニュースを見ているほうがよっぽど興味がある。今でも新聞は4紙に目を通している。記事を毎朝整理して、経済関連のニュースをフォローしている。雀百まで踊りを忘れず、ディーリングで身につけた習性は消えないものだ。
東京市場激動の時代、同時にチャンスと刺激に溢れた時代の為替相場を体験できたことは、一言でいうと非常にラッキーだったと思っている。10年遅れていたらチャンスはなかっただろうし、10年早くても駄目だったと思う。
そういう幸運を得られ、また機会に恵まれた。あの時代に、そしてその時に知り合った方々に深く感謝している。特に、ファイカル時代の上司だった住友出身の先輩、三井出身の次長は人間的にも素晴らしい人たちだった。今でもお付き合い頂いているが、このよう方々と一緒に働くことができたのも外銀に移籍したからだ。為替の世界に携われて、色々な意味で本当に有り難かったという感謝の気持ちで一杯である。
(全編終了)
*2010年08月19日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】外銀にビジネスチャンスあり
【中編】算盤で行ったスワップ取引で大きな利益
【後編】東京市場の黎明期に遭遇できた幸運
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