「刺激に溢れた黎明期を駆け抜けて」 ― 尾形 美明 氏 [中編]
■外銀に有利な市場環境を活かす
銀行には「持ち高規制」の他に「円転規制」(外貨を調達して円に変える額の制限)があった。円転規制の枠は銀行ごとにあって、その枠の管理や、枠自体の拡大を大蔵省に申請するのもディーラーの仕事だった。というのも、円転枠を拡大してもらえれば、確実に儲かったからだ。当時は極端な貸し手市場で、円資金さえあればいくらでも借り手はあった。
一方で、邦銀には原則「円転」は許されていなかった。つまり、当局による規制のおかげで、外銀は“簡単”に利益を上げることができたわけだ。ところが、外銀の本店は、「円転枠を増やしてくれれば儲かるのに、枠拡大要請に応じないのはけしからん」と言っていて、本店からの重役を大蔵省(現財務省)に案内するといつもこのことを繰り返すという状況だった。
こういった規制による歪みや季節要因による東京市場独特の要因は裁定取引をする上で、極めて旨味のあるものだった。あるときなどは、期末・期初のオーバーナイトのスワップ取引(為替スワップ)で700万円も稼いだことがある。期末の円資金繰りが苦しい一部の邦銀が、バカ高いコストを払ってオーバーナイト・スワップ(円資金の調達)をやらざるを得なくて、私はそのような事態を想定してポジションを持っていたのであるが、予想をはるかに超えた開き(スプレッド)になったことが幸いした。
スワップ取引とは、ある時点での通貨の売買と将来時点での反対売買を同時に約定するもので、例えば、3ヶ月物取引の場合、現時点でのスポットレート(現物)でドル売り/円買いを行い、3ヶ月後に、現時点のフォワード(先物)レートでドル買い/円売りを行うことを同時に約定する。つまり、この取引ではドルが最初出て行って、円を買ったことになり、3ヶ月先ではドルを買い戻す(円を売る)ことになる。この直・先の開きは、原則として日米の金利差を反映する。
また、私が大量のスワップ取引など各種の裁定取引が可能だったのは、当時はカウンターパーティー(取引相手)の取引枠やクレジットライン(信用枠)なども厳しくなかったからだった。その後、取引相手行の取引枠と同時に、資金のミスマッチ・ポジション(意図的なリスクテイキング)などへの限度枠設定など、行内の各種の規制が強化されて、大量の裁定取引は格段に難しくなってしまった。
スワップ取引はケミカルに移籍したときからやろうと考えていた。ノウハウは既に三井時代に学んでいた。当時は高度成長期、お金があれば日本企業はいくらでも借りてくれた。邦銀は、円・外貨資金とも慢性的な資金不足に陥っていて、一方的な貸し手市場になっていたが、外銀は、円預金はなくても、日銀担当者の了解をもらえれば、その範囲内で円資金は短資業者を通じて供給してもらえた。
この日銀への月例の資金繰り報告も、ディーラーが担当しており、例えば、「来月、貸金を5億円増やしてもよい」との了解を日銀からもらえさえすれば、貸出先には一流企業が行列をなしていた。また、上乗せ金利も1.5%などという、今では信じられないような状況だった。
■金利動向を予想して資金操作と為替操作
ドルの資金繰り操作も楽しくやりがいのあるものだった。ケミカルは米銀なので、米国の金利動向の情報は豊富に入手できる。本店やロンドン支店が発行するCD(譲渡性預金証書)が原資なので、LIBOR(ロンドンのユーロダラー市場での調達金利)よりは0.25%程度割安にドルを調達できた。
ドル金利の上昇が予想されれば早めに長めに手当てしておき、低下しそうだと思えば短期 資金で泳いでおいて、金利が変わったところで調達することになる。このドル資金繰りと同時に、スワップ取引を組み合わせて行うことで、面白いように儲かった。
日本の金利に関しても、ブローカーからの詳細な情報や資料でほぼ99%予想することができた。当時、ドル金利はドラスティックに変動していて、米国金利が一時16%という超高水準になったり、日米の金利が米国>日本と、日本>米国とが目まぐるしく交錯する時代を、今は信じ難いような、懐かしい気持ちで思い出している。
金利動向を読んでの資金操作と為替操作の組み合わせは上手くいけば儲けが大きく、スワップ取引を始めて、直ぐに利益を出すようになり、その後は毎月2,500万円前後の収益を上げていた。当時私は、当たり前だと思ってこういった裁定取引を積極的にやっていたが、実態は必ずしもそれほど一般的ではなかったようだが、逆に言えば、それが幸いしたのではないかと思っている。意図的なミスマッチのドル資金繰りによる利益もコンスタントに上げることができた。
スワップ取引では、建値は直・先スプレッド(直物レートと先物レートの差)で行われるが、マーケットが円高方向でドル先物売りの圧力が加わっていることと規制とで、ある時期、3ヶ月先の開きが22円だったことがある。これが史上最高ではないだろうか。行内の規制で、月越しの取引が出来なくなると、1週間単位の取引を、それこそ目一杯行ったものだった。
■未成熟時代の歪みがチャンスだった!
スワップ取引のターム(期間)の違う様々なポジションを持っていたので、自分が朝一でやらなければいけなかったのは、それぞれのタームごとのスプレッドが理論的にいくらであるべきかを算盤で計算をすることだった。検査に来た米国本部の人間が、大量にある先物の期日伝票を見て、驚いていたほど活発に取引していた。
スワップ取引はブローカーを経由して行っていた。私は多くのポジションを持っていたため、タームとそのスワップ取引の「取り」はいくら、「払い」ならいくらでやるかを、担当のブローカーに伝えておくと、喜んで色々な取引を持ってきてくれた。ブローカーは、自分のところにオーダーが来ると、顧客のニーズに合わせて、期近から期先までさまざまなタームで何本のもの取引に組み合わせていく。場合によっては、6ヶ月のスワップを使って、合計10本ものスワップ取引を完成させる芸術的なブローカーもいた。
また、ノーマルなタームでなく、いわゆるオッド(変則日受け渡し)取引も大いに行った。例えば、ある銀行が1年6カ月と15日先期日などの変則なターム取引を行ったとすると、内部の規制でカバーしておかなくてはいけないので受けてくれませんかと、ブローカーを通じて打診されることもあった。こうして受けたものを加えてポジションをラインアップしていると、これらをベースにして反対取引を行えた。ブローカーは、朝市場が始まる前に、先物の各タームの開きを報告すると同時に、私が興味を持つ先物スワップと開きを聞いてきたものだ。
71年のニクソンショックから81年ごろまでぐらいの10年間は、マーケットが未成熟だっただけに、その未成熟さを利用して、私みたいな人間でも儲けることができたのだと思う。今では市場が成熟し洗練された上に、通信手段やパソコンによるプログラム化など計算手段の向上もあって、市場の歪みを突く裁定取引は瞬時に行われるようになった。未成熟な時代だからこそ存在した歪みを利用して、算盤の手計算でも、比較的容易に儲けられた良き時代はもう2度と再現することはないだろう。
(後編に続く)
*2010年08月19日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】外銀にビジネスチャンスあり
【中編】算盤で行ったスワップ取引で大きな利益
【後編】東京市場の黎明期に遭遇できた幸運
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