「相場人生は全ての出会いによって」 ― 柾木 利彦 氏 [中編]
■プロフェッショナルな環境にやりがい
三和NYルールの中でも、とりわけ厳しかったのは、いかなる理由があろうとも損失限度額を1ドルでも超えれば、「クビ」という既定だった。実際は、銀行をクビになるわけではなく、他の部門への移籍を強いられるのだが、カタカナで書かれてあった「クビ」の二文字は恐るべきインパクトで、今でも鮮明に脳裏に蘇る。また、金利や債券ディーラーはなかったが、為替ディーラーだけが、成績表を壁に貼られていた。
実際、私のポジション枠は、6年年次が上の為替チーフディーラーよりも大きかった。こういったことを平気でやるのが宮森さんだった。宮森さんに毎朝、今日のディーリング方針を記した日誌を提出しても、中身には目もくれず、間違えているよ、と漢字の練習をさせられるだけで、ポジションに関してはまったく自由だった。三和NYは本当にバカみたいな大きなポジションが張れた。だからこそ、やりがいは相当なものだった。
宮森さん自身が為替で名を馳せた人物であっただけに、真のプロフェッショナルなディーラーを育てようとしていて、こういった環境下で徹底的に鍛えられたことが、自分のその後のディーラーとしての礎を築いてくれたことに間違いはない。
■超一流ディーラーから受けたもの
私の5年半におけるニューヨークでのディーラー生活の後半部分において、最も多大な影響を受けた人物がチャーリー中山さんだった。当時の邦銀ニューヨーク支店の中で取引先として三和NYを選択されたのは、宮森さんとの関係もさることながら、ディーラーの質の高さが理由だった。最初、チャーリーさんは宮森さんと情報交換やトレードをしていたが、ある日、「宮森さんが、マーケットのことは柾木に聞いてください。十分役に立つディーラーですよ」と仰っていただいたことなどを契機に私に直接電話をしてこられるようになった。
飛び上がりそうなほど嬉しかった。私は、超一流のディーラーに自分を評価してもらいたい一心で、チャーリーさんに対し、全力でベストパフォーマンスを出すように努力した。そうすれば、自分は本当に一人前になったとの自信が生まれ、為替の世界でやっていけるのではないかと思ったからだった。
チャーリーさんは、最初の頃は、毎週金曜日の午後に必ず連絡を寄こされ、大きなトレードを行っていたため、アメリカ人アシスタントの中では、親しみを込めて「Every Friday Man」というニックネームで呼ばれていたが、その内、平日も頻繁に電話を下さるようになり「Everyday Man」になっていった。私はチャーリーさんのトレードに貢献できることを「男子の本懐」のごとく感じることができ、マーケットのやりとりの中で、実に膨大な無形資産を与えていただくことができた。チャーリーさんは「8割の男」と称されていたが、私の実際の経験から、収益率は8割どころか「9割5分の男」といっても過言ではないと思う。
帰国して、宮崎晃一さんのチームで東京のドルマルクのチーフディーラーになり、1年後にドル円のチーフディーラーになった。宮崎さんはとにかく人間的に器がでか過ぎるくらいらいでかい人で、三和のディーラーの地位の向上に奔走してくださった方だ。そのおかげで、銀行内の風通しも良く、最高のディーリング環境を与えていただいたこともあり、三和銀行のディーラーで外銀に転職する人は皆無に近かった。
また、銀行として、同期でトップレベルの能力の人間しか、ディーリングルームに入れないという方針があり、事実、ディーラー経験者の大半がトップのスピードで昇格していった。
しかし、こういった邦銀としては稀有な好環境があっても、私は次第に東京のポジションの大きさがその人の大きさみたいな考え方に違和感を覚えるようになる。大きなポジションを持てる人はすごいというのはどこか違っているように思えてきてしまったのだ。
もちろん、大きな収益を上げるには出来る限り大きなポジションを持つに越したことはないのだが、元々の自分のトレードスタイルは、基本的にトレンドフォローしつつ、どちらかというと上げ下げのちょっとした動きを全部取りにいき、毎月毎月収益をきっちり上げていくスタイルだ。次第に、外資系でやっていく方が自分には合っているのではないかと考えるようになった。もちろん、三和銀行で培った、大相場の波にしっかりと乗って、ポジションを拡大していくという本流とも言うべきトレードスタイルは、その後のトレーダー人生の中で、充分に活かせてきたと思っている。
■シティバンク東京支店に転籍
チャーリーさんは、私が帰国した途端に、うちに来ませんかと熱心に誘ってくださっていた。当時、チャーリーさんは米国ファースト・インターステート・オブ・カリフォルニア銀行(以下、ファイカル)で、アジアの統括ヘッドをされており、東京のヘッドである澁澤稔さんは、チャーリーさんが邦銀出身で一番のディーラーとして認めるほど優秀な人だった。というのはチャーリーさんと同じぐらいの収益をあげるようになった唯一の日本人であったからだ。
私はニューヨークの終盤は、ほとんどこのお二人に鍛えられたといっても過言ではなく、師として仰いでいたから、誘ってもらえたことは真から光栄だった。しかし、結果的に、ファイカルでなくてシティバンク東京支店(以下、シティ)に転籍することにした。大ボスで有名ディーラーであるマーク・ロサスコさんやディーラーの面々とは三和NY以来、よく知った仲だった。
為替市場におけるフェアプレイなんて当たり前だと思うが、むしろ難しい状況でプライスをオファーすることで良い関係が構築されていく。三和NYが、難しい局面でシティにプライスを出したことをいつまでも感謝してくれているシティのディーラーたちと仕事をしたかった。
現在は、EBS(電子ブローキングシステム)によるディーリングが主体なので、皆、相手はプライスという機械で、人間だなんて思っていない。昔は、このプライスを出しているあいつ、あのプライスを出しているこいつ。こいつのポジションは絶対ショートだなとか、ロングだなとか、あいつ捕まっているなとか。当時は、プライスの背後に人の顔が必ず見えたのだった。
当時の自分の身の振り方に際しての決断の過程を振り返ってみて、親身に相談に乗ってくださる渋澤さんがいらっしゃらなかったら、外銀という新天地で、一層の経験を積む機会は逃していただろう。
転籍したシティでは、約1年後に外国為替部長として23人の外銀最大級のディーリングチームを率いることとなった。大手邦銀と競っているようなマーケットプレゼンスの高い銀行のディーリングチームを統括することにはそれ相応の責任や苦労はあった。しかし、シティのポジションのサイズは三和や大手邦銀に比べたらはるかに小さくても、日本の銀行と違って、収益に対するパフォーマンスは給与やボーナスという形で評価され、周囲の自分を見える目もガラッと変るので、やりがいは大きかった。
(後編に続く)
*2010年07月16日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】実力主義の邦銀で鍛えられる
【中編】超一流のディーリングを知る
【後編】オンリーワンのライフワーク
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