「インターバンクという戦場で」 ― 長尾 数馬 氏 [前編]
■硬派で自由奔放な学生時代
子供のころから運動能力は抜群によかったと思う。小学校時代は急遽抜擢された陸上部の走り高跳びでいきなり区の大会で優勝し、名古屋市の大会に出場した。中学校からは、中高一貫の、全国でも国公立医学部への進学者がトップクラスの受験校である、東海中学校・高等学校に進学したが、柔道の練習と遊びに明け暮れて、高校2年末まで勉強した記憶がない。
この学校の柔道部は大変強く、全国大会重量級優勝者で、その後同志社大学から大相撲に入門した服部(藤之川)などを輩出し、この頃は23年間連続優勝という実績を掲げ、愛知県の柔道大会での優勝の常連だった。中学1年次にはなんと1年の生徒約450人中90人余りが入部した人気の部活だった。私は中学3年のときに二段を取得し、副キャプテンを務めるようにまでなり、全国大会に出場した。高校2年には、団体戦のメンバーとしてインターハイに出場することになった。しかし、それを辞退したことから始まり、柔道を辞める事態にまでに発展してしまった。自分の我侭と我を通した結果でもあり、若気の至りではあったが、今考えると大変苦い思い出である。柔道の世界での将来性を期待していただいた先生や先輩だけでなく、インターハイで一緒に戦うはずだった同級生にも迷惑をかける結果となった。また一番厳しく、お世話になった顧問の先生がずっと長い間、僕のことをとても残念がってくれていたという、ありがたいお話を後になって聞くこともあった。しかし、私は後悔したくはない。
喧嘩はよくしたというか、よく売られた。柔道部顧問に釘を刺されているので、本当は戦いたくなくても、図書館で真面目に勉強をしていると他行の不良生徒が乱入し「お前、ガン切りやがって、外へ出ろ!」と吹っかけられる。受験校の校章が原因だったのだろうが、嫌々ながら、売られた喧嘩は買わねばならぬハメになる。二段保持者なので、全力を出し切ることはできないが、それでも自分が負けることはほとんどなかった。硬派を自称していたのだが、学校ではその素行や服装などから生活指導の先生には目をつけられ、恥ずかしながら厳しい処分を受けたことがある。私のようなヤンチャ坊主は、受験校においては異彩を放っていたようだ。
高校3年になって、全くおろそかにしていた勉学の方に目を向けるようになった。受験をするには既に時遅し状況ではあったが、興味は海外に移っていた。英語を勉強して、国際関係の仕事がしたい。そう自分の未来を描いたら、受験勉強にもチカラが入った。そして上智大学に合格した。
大学3年のときには、両親に頼み込んで、カナダ、アルバータ州のエドモントンに1年間留学をした。上智では法学部の中でも国際関係の授業を多く選択していたが、留学経験によって国際的な仕事につきたい気持ちが一段と高まった。また、(米国)弁護士であり、英語による国際関係取引法の授業で鍛えてくださった、澤田壽夫教授(現上智大学名誉教授)にも大いに感化された。厳しくも温かい先生は、今でも、私が本を出版すると、こちらで何も言ってなくても、自分で調べて連絡してきてくださる。
■外国人ボスによってダイレクトディーリング(DD)を刷り込まれる
就職活動では、日本の会社に入社するには(良い意味でも悪い意味でも)コネというものが必要であるという現実を突きつけられて、自分は日本の企業に即さないように感じてしまった。そうなれば、外資系企業に行くしかない。実際に面接を受けてみると、なかなか雰囲気がよい。その中で、最終的に選んだのは、ドイツのドレスナー銀行だった。
偶然にも上智の卒業生がドレスナーの人事担当だったので、生意気に、「外資系なら2年ぐらい経って転職してもいいですか」と訊いたら、「いいと思いますよ」と言った。正直、そんな会社があるのには驚いたが、この一言が決定打となった。
ドレスナーでは、外国為替資金証券部、つまりディーリングルームに配属された。他の新入行員は、2月・3月から業務に慣れるためにアルバイトで出行していたが、私はそんなこととは露知らず、スキーに出かけていて普通に4月からスタートした。出遅れ感を取り戻そうと考えたわけではないが、初出行日にかなり早く出勤したら、まだ誰も来ていなかった。
仕方なしに、一番入り口に近い席に座ってボーッとしていたら、出勤してくる人が次々に変な顔をしてジロジロ見る。するとドイツ人がニコニコしながら近寄ってきて挨拶をしてくれた。そこはチーフディーラーの彼の席だったのである。偉くても威張らないし、形式張らないのだと感心した。私はこのドイツ人に為替に関するインプリンティング(刷り込み)をされたと言っても過言ではない。その後、オランダ系カナダ人、イギリス人、香港チャイニーズ、フランス系カナダ人、アメリカ人と外国人のボスが続いた。
入行初日の第一印象通り、ディーラーという専門職で、上司も部下も人種も年齢もあまり関係ない能力主義の外資系金融機関の世界は、自分にとって居心地の良いものになる。その後、ドレスナー銀行ではその後約1年間は銀行員としての修行もさせてもらい、融資部門かディーリング部門かを選択させられることになる。もちろん結果は言及するまでもない。
初めて見るディーリングはとにかくすごかった。ドレスナーはテレックスや電話で、ほとんどが海外と直取引(ダイレクトトレーディング(これからはDD):銀行間取引で、銀行同士がブローカーや電子ブローキングを通さずに行う直接取引)をしていた。海外からバンバン電話が来て、皆、ものすごいスピードで必死になってディーリングをしていた。
90年代初頭にEBSなどの電子ブローキングが導入されるまでの東京市場および日本の銀行のディーラーは、ブローカー経由の取引が主体だった。各銀行はブローカーに注文を出して、それをブローカーが結びつける。ブローカー取引の場合、銀行は自分が取引したくなければ注文を出さなければよいのだが、DDの場合は、紳士協定および信頼関係(レシプロ:互恵主義)に則って、仲間の銀行や顧客からプライスを求められたら、逃げることなく、常に両サイド(買値と売値)を提示しなくてはならない。
■テン・ダラー・ディールで鞘を抜く
インターバンクではテン・ダラー・ディール(1本が100万ドル。10本(テン)で1,000万ドルの取引)というものを行なっていた。1日に何回も何回も他の銀行や顧客から呼ばれた。銀行間では互いに、テン・ダラーずつ売り買いをしながら、1日中何十回となく取引を繰り返し、その中で鞘を抜いていく。
相手に呼ばれたら、プライスは自分の相場観と読みで示さなければならない。ブローカーのプライスも信用できず、相場は気配値だけで動いている状況だった。当時はDD以外、確実に取引できるプライスはなかった。自分の相場観で、相場が上がると思えばプライスを上にずらし、下がると思えば、下の方にずらして出す。絶えず相手の狙いを予想しつつ瞬間的な相場の流れも読んでいなければ怖くてプライスを出せないのだ。例えば、市場の気配値レートが00−05であっても、相手が買ってくる、相場の流れが上昇と読めば10−15のレートを平気で提示する。これは相場が急騰した際の自己防衛でもあったのだ。
このようにして、誰かと絶えず取引しながら、ダイレクトでその注文をさばき(もちろんブローカーを使うこともある)、その中で、5ポイントや10ポイントなどの鞘を抜いて、その利益の積み重ねをしていくという、いわゆる、少ない値幅で売買を繰り返すジョビング(Jobbing)をした。
インターバンクにおけるDDでは、頻繁に取引をしなければならず、ポジション管理をするのも大変な仕事だった。従って、落ち着いて数字をコントロールできる能力は極めて重要となる。幸い私は、子供のころから、運動神経の他に計算能力にも長けており、計算の速さは家庭環境に起因しているようだ。家業は、シベリア抑留者だった父が帰国してから始めたはんぺん(さつま揚げ)製造業で、貧乏で一生懸命働く両親の姿を見ていたせいか、自然と金銭感覚が見についたと思っている。
スピードと度胸と勘、そして、計算の速さが必要とされるジョビングは、精神的にも肉体的にもきついことはきついが、総じて自分の性格や特長に合っていたのではないかと思う。25歳〜35歳までの最も脂が乗っていた時期は、ディーリングで利益を上げることを心から楽しんでいた。
(中編に続く)
====【監修書のご案内】===================================================
「チャーリー中山の投資哲学と堀内昭利の相場戦陣訓」
FX投資のための[直伝]心得帳
チャーリー中山/堀内昭利 著 長尾数馬 責任編集
実業之日本社より2010年6月17日発売
『これを読むと簡単に相場がやりたくなくなるかもしれない。
でも現実を個人投資家の方々に伝えたい。
そして自分自身で本当の投資を学んで欲しい』−長尾数馬
========================================================================
*2010年07月12日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】スピードと度胸と勘と計算
【中編】確実に儲けるのがプロの仕事
【後編】信頼という絆で相場と対峙
>>「The FxACE(ザ・フェイス)」インタビューラインアップへ