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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「サラリーマンディーラーの一分」― 河村 正人 氏 [中編]

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河村正人


(前編はこちらから)


■東銀というプレゼンス


 1年程カスタマーディーラーを経験してから、ドル円のチーフディーラーになった。チーフディーラーは、ある程度自由にできるけれど、ポジションどのぐらい持つかとかひっくり返そうかとか、大まかな方針はチームで決めてやっていた。

当時、外国総務部(後の為替資金部)のドル円のポジションは一元化されていて、今のような分業制ではなかったので、チーフディーラーが直物、先物、プライス(建値)を全て決め、ポジションを決めていたので、忙しいことこのうえなかった。

この頃の東銀の東京市場における為替取引のシェアは約30%で、プライスリーダーとしての役割は大きかった。とにかくまず朝プライスを決めなくてはならなくて、これでやるからと朝一番に全ブローカーにダーッとプライスを出していく。これには損得抜きにしてプレゼンスを強調する意味合いも含まれていた。


プライスリーダーである以上、特にドル円については、常にプライスを提示しなくてはいけない。例えば5−15銭と全ブローカーに出す。それで15銭が買われたとすると10−20銭と出す。80年ぐらいまでの東銀は、こんなふうにして東京市場をコントロールするというやり方だったから、外銀が進出してくると、もう太刀打ちできなくなってしまった。特に東銀の海外支店は固定相場の時代から、その少し先ぐらいまでは利益が出ていたが、段々と儲からなくなっていた。

事実、70年台後半の私のニューヨーク勤務のときには、もう東銀でございという時代は終焉に差し掛かっていたのだった。シンガポールに転勤したときはまだシンガポールがサテライト市場だったので、こういったプライスの出し方はやらなくてよく、いいときに、いいとこだけやれたので、ディーリングはずっと楽だった。

また、当時は、実需原則やポジション規制がうるさくて、時々それに引っ掛かってしまう。大蔵省(現金融庁)の為替検査なども入ったりして、かなりイラついた。しかし、東銀としては様々な権益問題につながるので、こういった規制があったほうが良かった部分もある。ポジションの枠にしても、どの銀行よりも飛び抜けて大きかったから、痛し痒しだったと言えるだろう。


■シンガポール市場で奮闘する


 東銀の為替は各支店が独立採算制でまさに切磋琢磨していた。拠点間で打ち合うのは当たり前。例えば本部はロンドンに相場を出せと要求してきて、プライスが出たら引っ叩く。ニューヨークもロンドンもシンガポールも香港も互いにライバル同士。他の銀行の人からこんなのは見たことがないと言われたくらい支店間で熾烈な戦いを繰り広げていた。やはり陣容と主要マーケットということもあって、利益が出ていたのはニューヨークとロンドンだった。

ニューヨークからシンガポールへの転勤の辞令が降りたときは、課長のタイトルだったけれど、内心落胆した。シンガポールの位置付けはまだまだ低かったからだ。前々任者には「マッドドッグ」こと若林栄四さんがいた。私はシンガポール支店の収益性を高めるために抜擢されたのだが、行ってみてビックリしたのは、ベースが何にもなかったことで、ここで、どうやって儲けるんだ?!と途方に暮れた。


シンガポールでは、それまでどんなビジネスの仕方だったかというと、東銀を含め5行程度のメジャーな銀行が皆ダイレクトに500万ドルや1,000万ドルなどを取引する。直接打ち合うのだから、度胸試しの戦場のようなものだ。ワーッと同じ銀行を集中的にやっつけて、我慢できなくなって投げてくるのを待ったりする。当然5行だと手口も全て分かってしまう。若林さんはそこで、猛烈に打ち込んだ。マッドドッグとは、こういった彼のアグレッシブなディーリングに由来する。

私が赴任したときも不毛な打ち合いは続いていた。とにかく何にもない、何もわからない、戦略も考えられない状況で、どんどん損失を出し、挙句の果てに盲腸になって入院してしまうくらい追い込まれた。しかし、幸運にも、国を挙げてシンガポールの国際金融市場を強化する政策が進められることになり、MAS(シンガポール金融監督庁、中央銀行に相当)が中心となって活発に為替取引を始めた。

為替注文は市場の活性化を狙い、在シンガポールの銀行に出された。チャンスだ、ここで東銀のプレゼンスをアピールしなくては。MASへの営業活動に注力した。その甲斐あって幹部と親しくなることができた。今でも忘れもしない、きっかけは、ある日東京市場が終了し、ロンドンがスタートする空白の1時間に、当時としては大きかった1億ドルのプライスを求められたときだった。

損するのはわかっていたけれど、名刺代わりに、バーンと10銭幅で両サイドを出した。こんな風に提示されたら、彼らは絶対にやらざるを得ないはずだ。後から、ベリーインプレッシブだと褒められて、ドル円の取引は東銀をメインに使ってくれるようになった。商売自体は厳しいのだけれど、MASとの取引で東銀シンガポール支店の市場における影響力は格段に強くなっていった。


■無事これ名馬


 シンガポールのディーラーの中で、最も印象に残っているのは、インド人のムクンダンという人だった。旧ソ連で民主化の動きがあって、ソ連がそれに対して軍隊を送ったニュースが流れてドルがバーンとぶちあがったとき、彼にどうしているかと尋ねたら、今朝からずっと300万ドルショートをキープ、後は右左で流していると言う。

自分はバカな連中にくっ付いてロングには絶対しないという意思表示だが、さりとて、リスクはリスクなので、そんなに大きくポジションを張るわけにはいかないという微妙な思いが300万ドルのショートに込められている。多数派に付くよりも、彼は自分の相場観や値ごろ感で、売っていなくてはいけないと判断している。プロ意識が高いと感心した。

東銀のすごい人たちには、浅野和郎さん、長屋佳彦さん、木村治雄さん、が挙げられる。この人たちに共通しているのは信念だった。それがいいか悪いか別として、こうだと思ったら、やり遂げるという人たちで、自分のやり方に対しては非常に忠実だった。


浅野さんのディーリングは、彼自身が言っていた格言、『無事これ名馬』を地で行く方法だった。それほど大きなポジションは取らないのだがとにかくうまい。小太刀使いみたいな感じで、パンパンと一種のリズムに乗って売ったり買ったりして、非常に小さなリスクの中で、小刻みに稼いでいた。リスクをとにかくできるだけ取らない、わからないときにポジションを取らないなど、余計なことをしない。そういうのを徹底していた。

長屋さんは私と同様にポジションをできるだけ長く持ちたいタイプだった。いったんドーンと持ったら腹を括ってとにかく持つ。彼も私も、プラザ合意では、240円くらいから160円くらいまで、腹いっぱいつくった売りポジションを1年近く保有した。

(後編に続く)

*2010年05月10日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】為替の専門職としてスタート
【中編】プライスリーダーの光と陰
後編】為替から経済合理性を学んだ





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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