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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「人づくりとインフラづくり」 ― 藤井和雄 氏 [後編]

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藤井和雄


(中編はこちらから)


■初のフォレックスクラブ東京大会


 世界フォレックス大会は、毎年開催国が持ち回りで変わる。開催ホスト国の負担は、準備作業、費用共負担がかなり多大だ。日本からは、10数年間、毎年30−40人が参加してお世話になり放しだった。東京外為市場が急発展していることの紹介や返礼の意味も込めて日本での開催を計画しようと提案し、各行の同意を得た。86年に東京での初開催となり、巡り合せで自分が実行委員長となった。

海外から2,000人余が参加して、しかも外国語で行う大会は戦後最大の規模だった。資金集めに苦慮もしたが生保や一部商社の寄付もあってなんとか乗り切った。その頃天皇がご不調なので、イベントリスクの保険を掛けるかどうかが大きな問題だった。電通からは脅かされたが、800万円の保険料は到底無理と腹をくくり掛けなかった。ツイていたと思う。


ゲストスピーカーは、大蔵省の行天豊雄さん、ソニー会長の盛田昭夫さん、後に多摩大学の学長になられたG・クラークさんにお願いし、大変好評を博した。とりわけ盛田さんが「為替ディーラーは2−3日や月ごとの変動を喜んでいるがそれは困る。製造業ではプロダクツの開発に短くても3年、ときには10年もかかる。為替は安定してもらいたい」とスピーチチしたら大拍手だった。ディーラーは3分とか3時間とか短期でマーケットを追っているのに、盛田さんはあんなに長い期間のこと言ってと、外国人ディーラー諸氏は後で盛んに話題にして談笑していた。


■東銀NYはインフルエンシブ


 2度目のニューヨークへ赴任してしばらく、課長(チーフディーラー)となった。自分が教えられたときと同様 トレーニーは常時4人そのほか派遣も増やしたが、それでも足りずアシスタントとして米人女性をディーリングルームにいれた。取引量はダラーマルク、ポンドが最も大きく次いでスイス、円、カナダの順だった。スクリーンはまだ無く電話とテレックスでディーリングをしていた。皆がんばって取引量が増え、NYでは5−6番目という風評が耳に届くようになった。

そんな74年も半ばを過ぎた頃、Fed(米連邦準備銀行)のグリーン為替課長(美女にして才媛)から電話があった。「近々モルガン、シティ、バンカーズなどの米銀5−6行と東銀でマーケットコミティーを創りたいので是非参加して欲しい。東銀を選んだのは、ジャパニーズバンクの代表だからとか円をやっているからではない、ニューヨーク市場でインフルエンシブ(影響力のある)な銀行だから」と言われて非常に嬉しかった。よくあることで内部より先に外部が活動ぶりを評価してくれる事例だ。


その頃よく情報交換していたのは、モルガンのD,ウエザストーン(後の会長)とグリーン課長だった。わが為替課の小さなパーティにも気軽に来ていただいたりした。グリーンさんには、東京フォレックス大会にぜひとお願いして足を運んでもらったおかげで、大会に花を添え、盛り上げていただいたことに感謝している。

もうひとつ東銀NYの為替が市場に知れ渡ったのには蔭の理由がある。それは女性ディーラーの登用である。70年代初頭はごく一部の大手米銀を除き大半の銀行は、為替はいわゆるたたき上げ職人そして男の世界の仕事だった。

ましてや、ディーリングルームに女性を入れるなどは考えられもしなかった。こちらは猫の手も借りたい必要に迫られて、彼女たちをアシスタントディラーとして採用した。やがて電話を取れるようになると事態は一変し、コールの数が飛躍的に増えた。BOTの名前が市場に迅速に浸透した最大の貢献は、女性活用のお蔭だったかもしれない。


■入るは易く究めるは難しい為替


 僕のディーリングは、どちらかと言えばマクロ分析をして、トレンドフォローするやりかただった。スポット(直物)の一日の売買だけで稼ぐのはおおよそ難しい。予想に反すれば一旦切るか反転するかあるいは先物の操作に組み替える2段3段構えでポジションを張っていた。クレジットスタンディング(信用与信)がしっかりしている限り、懐深くディーリングできる。東京市場で4割近いシェアでがんばれたのも、この深い構えがあったからでもある。

僕は、為替は、海面にほんの少しだけ出ている氷の部分だとよく比喩的に言っている。海面下の氷塊がどの程度大きいか、形状がどうかは海面上の氷片に凝縮されている。プロなら分かるはずだ。経済、政治、社会、などの様々な現象の凝縮されたものが、為替となるのである。したがって為替の動きを見れば、世界が見えてくる。為替を知ることは、世界を知ることに通ずる。


しかしこんな良い仕事にも適性がある。いろいろ積み上げて理詰めで考えていくタイプの人間にはまず向かない。変数が多いし、ダイナミックだから。絵画鑑賞のように、一瞥で絵を読み取る、水平思考型のほうが合う。

多くのエコノミストや評論家がファンダメンタルズを説き、統計資料や数字をたくさん使って明快に相場を語ってくれる。論理が明解であればあるほど相場の本質から遠ざかっているように自分には映る。実戦を経験していない人のコメントは、自分なりによく取捨選択することが肝要だ。

バーナード・ショーの「He who can, does. He who cannot, teaches. (できる者は自分でやる。出来ない者は人に教える)」ということわざになるほどと頷く節がある。

為替に携わって良かったと思う。しかし良いことばかりだったわけではない。とくに健康面では、逆ポジションに呻吟し夜中に飛び起きたり、急に落ち込んで、なぜ俺はこんな仕事しなくちゃならないんだと思ったりのストレスの連続で、胃潰瘍や過敏性腸症候群、神経性脱毛症にも悩まされた。

それでも離れられなかったのは為替を通じての人間関係、とりわけ為替マン共通の闊達さに支えられたからだろう。同時に縁有って為専といわれた東銀で働き、いわば為専のノブレスオブリッジとして東京市場の骨格作りに寄与できたことを誇りに思う。 


(全編終了)

*2010年01月22日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】東銀の徹底的な人づくり
【中編】東京市場国際化に注力
【後編】為替に没頭できたことへの誇り





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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