「介入で為替のダイナミックさを知る」 ― 大熊義之 氏 [中編]
■為替ディーラーを味方につける方法
当時、EC諸国の間で、為替金利などの情報を1日に4回ほど定期連絡をするECコンサーテーションに入ることになった。このネットワークを構築していたので、85年9月22日のプラザ合意による介入が開始されたときは、各国の中央銀行からの情報をもれなく収集することができたのだった。それ以前は、アメリカといえども、後で議事録を見ないと介入額がどれほどに上るかわからなかった。
第2次オイルショックのときには僕も行ったが、第1次オイルショックで外貨準備が足りなくなって、産油国に国債を買ってもらいに行っている。それに日本はインフレが怖かった。こういったことを経験していると、円は実力相場で強くなくてはいけないというムードが日本にはあった。プラザ合意によるドル高是正は、アメリカから持ちかけられた話ではあるのだけれど、日本にも経済面や政治面でのさまざまな思惑があってその誘いに乗ったのだから、お互い様だったのである。
プラザ合意に基づき、各国の通貨当局はドル高是正のための協調介入を実施することになり、日本も積極的にドル売り介入を行うことが決定した。しかし僕は、この合意が最良の方法とは思っていなかった。介入により、為替を、受け身でならすのではなくて能動的に突き動かそうとすると、一旦動き出した相場は止まらないでどこまでも進んでしまうという危険性があると感じていたからだ。
だが、個人的な意見とは別に、日銀為替課長として、介入の現場責任者の役目がある。役目柄、介入を行う以上は、やったことが意味あるという格好にならないとダメだと思った。それに、ほらみろ、日銀、これだけ介入に金使ったって為替相場が動くとでも思っているのか、なんてマーケットの連中にバカにされたくなかった。
確かに、過去において、いくら介入しても、マーケットの巨大なパワーに負けてほとんど効果を生むことなく徒労に終わっていたから、だれもが今回も同じ轍を踏むと思っていても当然であるし、僕だってそう思いかけていた。今までと同じやり方では効果は上げられないのは明白だった。従来とは違った作戦に打って出なくては……そこで思いついたのは、これまでは、どちらかといえば戦うべき「敵」と考えていた為替ディーラーを「味方」につける方法だった。
■当局は本気だ!
ディーラーの人たちに、介入に協力してもらえば儲けられますよという雰囲気を作ることが先決だ。そのために、9月23日、秋分の日、日銀に近い三越のライオン像の前で、英文と和文のG5の公表文を、10数行の介入銀行中心に配布した。この公表文は既に発表されていたもので、翌日になれば、新聞に掲載されるものを1日前にもっともらしい顔をして、皆さんに差し上げれば、少しは効果を上げられるかもしれないと期待した。
今までとは違い、敵を味方につける、または敵とつるむ方法だから、このことは大蔵省にも、日銀の上層部にも反対されるとまずいと思い、積極的には話をしなかった。僕に課せられた任務である、何が何でも円高に持っていくことを全うするためには、この方策以外には考えられないから躊躇する暇などなかった。
僕には長男次男説があって、長男というのは、気は優しいのだけれど気が弱い。次男は、気は小さいくせに気は強く、窮鼠猫を噛むみたいなところがあって、土壇場になるとやたらに開き直ってしまう。このときもそういう気持ちになっていて、もし、文句を言われたら喧嘩すればいいのだと腹を括った。
今までとは180度違う日銀のスタンスに、最初は、皆、驚愕し疑心暗鬼していたが、当局は本気だ、じゃあ乗ってみるか、儲かる分にはいいんだから、じゃあ、儲けさせてもらいましょうという気運がマーケットに広がっていった。
ディーラーのほとんどは、どうせすぐまたドル高にすぐに戻るに決まっていると思っていたから、流れに乗ろうなどとは思っていない。日銀がヒョイッと介入して、ドルが下がる瞬間があれば、そこでパッと買って、後で売って、サッと逃げようぜ、円高になろうが円安になろうが、そんなこと我々には関係ない、儲かればいいのだとからとそのときは思っていたはずだ。だが、26日から急速に円高は進行して行く。
■皆が驚いた巨額介入
その前の連休明けの24日のこと。初日23日に大量介入に踏み切ったNY連銀から、さあ、今度は日銀の番だから頑張ってドル安にしてくれよとバトンを渡されたら、商社や石油会社のものすごいドル買いで円安に押し戻されてしまった。なんだよ日銀、あれだけ頼んでおいたのにダメじゃないかとアメリカは思ったと思うが、彼らも、また実は日本の大蔵大臣も、介入額を聞いてびっくりしてしまう。
24日の引けでドル円のスポットの出来高は47億ドルと史上最高で、そのうち日銀の介入によるドル売りは約13億ドルにも上ったからだ。
榊原英資さんが財務官になってからは、大蔵省が介入の表舞台に立つようになり、日銀は、財務省から指示が来るのを待っているような格好になっているが、あの時代は、必ずしも大蔵省から言われるまで黙っているわけではなくて、むしろ、マーケットは日銀が見ているのだから、これはちょっとまずいなと思うと、介入しましょうとこちらから持ちかけるような場合が多かった。しかし、大蔵省は、介入資金である外為特会(外国為替特別資金会計)は自分のお金だと思っているから、そんな無駄には使わせないぞというような雰囲気がある。
だから、お金を使わない介入方法も考えた。レートチェックというパフォーマンスによりいかにも介入を頼みそうな素振りを見せたり、絶対にヒットしないようなところにオーダーを置いてみたりと色々な手を使い、これを僕が「言うだけ介入」「置くだけ介入」なんて言っていたら、日経新聞の滝田洋一さんが「言うだけ介入」より「口先介入」の方が良いんじゃないと提案してくれた。口先介入は、マーケットでは榊原さんが発案者ということになっているが、そのウラには実はこんな経緯がある。
日銀のディーリングにはディーリング益はない。ただ、結果的に儲かることはある。プラザ合意で、2百何十円で売って、ルーブル合意になって必死に安いのを買っているから益はできるが、外為特会の中でやっているだけの話である。
プラザ合意を機に、為替は、テレビのニュースで天気予報並みに報道されるようになり、介入を担当している僕も何度もテレビに引っ張り出されたりして、次第にオレはすごい仕事をしているんだという気になってきたが、ある日、渋谷の雑踏を歩いていて、ふと、ここにいる人たちは、為替のことなんかそんなに気にしてないのではないか、これは自分の勝手なはしゃぎ過ぎなんじゃないかと、かなり冷静になって、プラザ合意から1〜2カ月ぐらいの間、入り過ぎていた気合いがフッと抜けて、そこからとても楽になった。
(後編に続く)
*2009年12月01日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】プラザ合意の4ヶ月前に日銀為替課長に
【中編】介入の秘策に躊躇なし
【後編】戦いの跡を振り返り今思う
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