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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「介入で為替のダイナミックさを知る」 ― 大熊義之 氏 [前編]

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大熊義之



■要領のよい次男坊


 僕は未だに九九は全部言うことができない。8×2は2×8でよいのだし、1×1=1にいたってはバカじゃなかろか、何の意味もないだろう、と思ってすべて覚えることをしなかったからだ。数学や物理は好きでも、三角関数の公式などがなかなか覚えられなかったのはこういうひねくれた性格が関係しているのだろう。中学生になって、教育実習に来た数学教師の卵から、「無限」にも数えられる無限と数えられない無限があると教わったときは無性に嬉しかったものだ。


小学校時代も、成績がさほど悪かったわけではないが、勉強はほとんどしなかった。ただ、小学校6年生の2学期だけは猛烈に勉強した。2歳年上の兄貴が麻布中学に通っていたので、僕も当然そこに行くものと考えていたのだが、6年生の夏休み明けに受けた最初の模擬試験の成績は、200人中、友達が20番台なのに比べて僕は50番。とても悔しくて猛勉強を開始した。2ヵ月後の模擬試験では、国語、算数、社会、理科の4科目で397点の成績を取れた。理科を1問だけ間違えてパーフェクトを逃してしまったのは、今でも悔やまれる。

年齢が近いせいで、僕は、いつも2歳年上の兄貴の後を追っている格好だった。ただし、兄貴が失敗したことは絶対にやらない。次男坊は要領が良いのだ。麻布中学で兄貴のいた山岳部に入部した。山岳部の同級生には豊川圭一さん、1年下には谷垣禎一さんがいる。中学の延長で麻布高校でも山岳部に入り山登りに明け暮れた。山が相手であるから、チャランポランにはやっていられず、山岳部の活動はきつかった。


僕は早生まれで体が小さかったから新人で重い荷物を持たされると、真っ先に潰れてしまう。一人潰れると登山のペースが落ちて楽になるので、メンバーは早く脱落者が出るのを待っている。でも、いくらきつくても、冬山の登山には心地よい緊張感が漲っていて、気持ちは高揚した。


■日銀は計量経済学がきっかけ


 大学は第一志望の東京大学を落ちてしまったので、ICU(国際基督教大学)に入学した。僕はその頃、大学卒業即就職というつもりはなかったので、まあ東大は大学院で行けばいいやくらいに考えていた。大学生になっても、試験でさえ、ほとんど予習や復習なしにそのまま受けるパターンが多く、勉強にはあまり力を入れていない。それでも授業をサボることをしなかったのは、勉強自体別に嫌いなわけでもなかったし、また多分それ以上に自分のキチンとした性格に由来すると思う。僕は、未だに小学校1年からの成績表をすべて幼稚園雑誌の付録の紙ばさみに入れて保管しているし、ビジネス手帳、インタビュー記事にいたるまでほとんど整理して取ってある。


日銀時代のビジネス手帳

日銀時代のビジネス手帳

そのうちに、数学好きな自分は計量経済学に傾倒していく。ICUには、たまたま計量経済学で先駆者として有名な福地崇生先生が教鞭をとっていて、先生の薫陶を受けるようになった。この頃は学生の使えるコンピューターなどないので、電動計算機や手回しの計算機を使用して計量モデルを作成していた。

大学では、3年生のときだけ、半分海外留学しようかなとの気持ちもあり、成績を揃えようと一生懸命勉強した。期間限定で勉強に集中するのは中学受験の2学期と同じで、省力志向というわけではないが、ここぞというタイミングではなぜかそういった力が発揮される。


おかげで、3年生の成績は社会科学科のトップとなり、4年生の学費はタダになってしまった。単位もこの段階ですべて取得してしまったので、4年生では、徹底的に卒論(日本経済二重構造の計量経済学分析)に注力することになり、データ探しのために、日本銀行や大蔵省(現財務省)に足を運んでいるときに、何気なく日銀の人事部を覗いてみた。多分この頃は、大学院に行こうという気も大分失せていたのだろう。

僕は、統計を取りに来ただけだと言うのに、まだ早いと言う。就職活動に来たと思われたのだ。そのときに、名前と住所と電話番号を置いていったら、後日、日銀から呼び出されて、行ってみると人事課長が出てきた。アルバイトやってますかなどと訊かれ、帰り際に、ああ、きみきみ、体は大丈夫と尋ねるので、大丈夫ですよと答えておいたら、この段階でほとんど決ってしまっていたようだった。


「調査月報」が好きだった東京銀行や近所に支店があったからという理由で富士銀行などにも願書を提出してみた。東銀は上司も名前で呼ぶというし、自分の気持ちは俄然東銀に傾いて、日銀に、東銀を受けようと思っていると言ったら、東銀の試験はいつですかと訊く。7月1日ですと言ったら、6月30日に呼び出された。このときは理事がずらっと並ぶ面接だったが、人事課長は自分が推薦した人が落っこちてしまっては困るので、一生懸命かばってくれた。

就職活動には、成績表の「優」の数がものをいう。幸いにして僕は優の数が多かったが、これにはカラクリがある。ICU はA〜Fの成績評価を日本語につけ直すときに、A・Bをひと括りして優とする。しかも、一般的な大学と違って3学期制なので、優の数は自動的に1.5倍以上になってしまう。僕は、日銀の人たちは優の数を数えてどうするのだろうと思った。


■為替課に意気消沈


 66年4月、日銀に入行した。どこに就職しても同じ、と思っていたが、日銀には理屈さえ通ればほとんどのことをさせてもらえる寛大さがあって、これは良いところに入ったなと見解を改めた。日銀に官僚的なイメージを抱く人も少なくないだろうが、内部ではそれほどではない。ただ、外部に向かうと、途端に組織を守ろうとするような行動に出てしまう人がいることが官僚っぽさとして受け止められてしまうのだと思う。

最初の4カ月間経理局で研修後、前橋支店に転勤。そこで、発券課、国庫課、営業課の実務を3年間経験した後で、統計局解析係に配属されて、ようやく自分がやりたかった計量経済の仕事をすることになった。


贅沢にも貝塚啓明、宇沢弘文といった著名な経済学者の方々にも指導され、2年間、2年上の先輩と2人で、春夏秋冬、日銀の支店長会議があろうが、景気が良くなろうが悪くなろうが、まったく関係なく、日本経済の計量モデル(金融モデル)の作成に専念し、これを学会で発表するなど非常にやりがいのある充実した日々を送らせてもらった。

統計局に行ったのを皮切りに、すごろくのようにさまざまな部署を経験することになる。ワシントンのIMF統計局に3年3ヶ月。(IMFでは大蔵省から出向していた榊原英資さんと一緒に車通勤をしていた。)一旦日本に戻って、外国局に4年8ヶ月勤務後、ロンドンに2年5ヶ月駐在。それから考査局を経て外国局為替課に半年ほどいた後で外国局投資課長。そして85年5月、プラザ合意の4カ月前にまた外国局為替課に為替課長として戻った。


しかし、自分は、本当のところ為替課はうれしくなかった。当時日銀の理事だった緒方四十郎さんがBIS(国際決済銀行)の為替会議の議長をしていた関係で、手足となって海外と情報交換できる人間を必要としていたから引っ張られたようでもあったが、別に自分は日銀で出世したいとは思っていないにしても、当時の為替課はあまりにもお先真っ暗みたいな気がしていた。行きたくないと反発してみたが、もう決まってしまっているからと言われれば仕方がなかった。

(中編に続く)

*2009年12月01日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】プラザ合意の4ヶ月前に日銀為替課長に
【中編】介入の秘策に躊躇なし
【後編】戦いの跡を振り返り今思う





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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