「為替が与えてくれた冒険と挑戦」 ― 佐藤三鈴 氏 [中編]
■通貨数では一番
当時はテレックスでディーリングする事が多かったので、モタモタ打っていると、ドケーッ!と怒鳴られました。悔しくて早朝出勤してテレックスの練習をしていたら、イギリス人に「ミスサトウ、昨晩はディーリング・ルームに泊まったのか」と言われたこともあります。
最初の2〜3ヶ月は自分が情けなくて、トイレで涙を拭いて席に戻ることもたびたびありました。遂に、私には無理ですと上司に弱音を吐いたら、初めは皆大変なのだからもう少しがんばってみろと励まされているうちに、気がつけば、ディーリング・ルームの中で行き交う言葉がスンナリと体の中に入って、自然に反応できるようになった瞬間を鮮明に記憶しています。
私のロンドン着任当時、為替は、ドル対ポンド、ドイツマルク、スイスフランが主要カレンシーとして取引され、円はまだローカルカレンシーの部類でした。しかし、日本経済の拡大と共に、バンク・オブ・トウキョウが円取引のリーディングバンクとしてマーケットを支えたこともあり、瞬く間に円の取引量は何倍にも膨れ上がっていきました。
そのうち、私は、北欧3通貨、イタリアリラ、スペインペセタ、ポルトガルエスクード、オーストリアシリング、カナダドルなどのマイナーカレンシーを担当するようになりました。通貨数では一番。そして、その国を自分の目で見るのはディーリングする上で参考になるはずと考えて、担当通貨の国をできる限り旅行することにしました。
その頃、イタリアンリラは弱い通貨の代表で、いつも売り持ちポジションにしていましたが、現地に行ってみて、イタリアの逞しさや人々のエネルギーに圧倒され、帰って来てから、買い持ちポジションに変えてみたこともあります。
東京からのオーダーのカバーを取ったり日本の商社へレートを提示したり、また、少額ながらポジション枠をもらい自分の考えでディールを開始し、毎日出される損益表に一喜一憂しながら、ディーリングの面白さと怖さを実感するようになっていきました。
自分は、大儲けよりは、自分の身の丈に応じてポジションを持ち、コツコツとディールするタイプのディーラーです。また、顧客との取引では、できるだけ良いレートを出すように心掛けた積もりです。しかし1ヶ月の収益が1日ですっ飛んでしまうのも為替の世界の恐ろしさなのです。
常に挑戦させられていたのは、マーケットの動きの中で、自分の意思に従って、自分がどう動いていくかということでした。そのときに、買うと決めたら、優先順位で瞬時に行動する。どこの銀行からプライスをもらうのが一番良いのか、あるいは、マーケットのブローカーを叩いたほうが良いのかなどを、一瞬の反射神経的動きで行うのです。そしてまた、その結果がすぐ出る世界なのです。実際、こういった一瞬でのアクションを身につけられなければディーラーとしてはやっていけません。
■凄い男たち
課長の上林邦雄さんは、大変厳しい人で、上林長官と呼ばれ、皆に畏怖されていました。しかし若手トレーニーや女性には心優しい人でした。チーフディーラーの長屋佳彦さんが円の後にポンドのディールをするようになったら、邦銀で初めて、バンク・オブ・イングランドの介入オーダーをもらうようになりました。東銀はそれ位マーケットメイクをし始めていたということです。
介入オーダーが来ると、“オールドレディ(英中銀の通称)キターッ!”と言って、ディーリング・ルーム全員が一斉に注目する。介入がその銀行から出るというということは何が行われるかをいち早く知ることになるからです。円取引が強くなることもさることながら、ロンドンの為替市場の中でも、バンク・オブ・トウキョウが皆から認められた、本当に凄い時代でした。長屋さんは、シティーの中で有名だっただけでなく、ニューヨークの米銀からも彼の相場観を訊いてくることもたびたびありました。
長屋さんの後に円担当になった木村治雄さんはロンドンに来て、初めてディーリングをすることになり、大変な苦労をされましたが、持ち前の負けず嫌いを遺憾なく発揮されました。あるとき、ディーリングシートの上にポタポタと鼻血を落しながらディールをしていた姿は今も忘れることができません。木村さんもまた語り伝えられるディーラーとなりました。
現在のディーリングはチームプレイにより市場を動かしていると思いますが、その頃のマーケットは現在と比べると小規模でしたが、一匹狼で個性豊かな人が存在していて、男って凄いなと思う場面に何ども遭遇しました。
当時、ロンドンにいらっしゃった三井物産の福間年勝さんも深く印象に残っている方のおひとりです。あるとき、福間さんから、カナダドルの両サイドを出してくれと言われました。当時、顧客は、だいたい買いですとか売りですとか言ってくるのが一般的でしたが、福間さんはビッドとオファーを要求してきたのです。
私はまだ新米で、福間さんの迫力におののきながら、ブローカーを2社ほどチェックして、両サイドを少し広げて出したら「ドブ板をまたいだような汚いレートを出すんじゃない!」と怒鳴られてしまいました。
最初は怖い人だと思いましたが、福間さんは、根は優しい方でした。カナダドルと穀物の収穫の関連性などを教えて下さり、また私が帰国する際は一席設けて下さったのです。
福間さんによって、私は、もっと為替を勉強する必要性を痛感させられました。その後、三井物産の副社長としてのご活躍を新聞や雑誌で拝見するたびに「私この方に怒鳴られたことあるわ。福間さん、やはり偉くなられたのだ」とそのときのことが懐かしく蘇ってくるのでした。
■資金市場での信用の重要性
自分にとって、ロンドン時代の最も衝撃的な出来事は、74年のヘルシュタット銀行の破綻でした。信用というものが総ての基礎になっていることを思い知らされる事件だったからです。当時、ユーロ市場は規制が少なく、自由な取引ができるため、多くの国がロンドン市場に参画していました。邦銀の多くもユーロ市場からのドル調達に依存していたのですが、ヘルシュタット銀行の破綻で、ユーロ市場は大混乱し、資金の出し手がいなくなり、突如として取引が成立しない状況になってしまったのです。
このときの経験は深く脳裏に刻まれ、ロンドン市場やその後に経験したバーレーン市場時代と比較して、86年頃の東京のインターバンク取引における銀行間の信用に対する対応は随分甘いと違和感を覚えました。
為替のマーケットは、一瞬、為替相場が1円飛んでいることは特段珍しいことではありませんが、信用で全てが成り立っている資金市場は、資金の出し手が一瞬にして無くなり取引自体が成立しない最も怖ろしい状況になり得るのです。
(後編に続く)
*2009年11月05日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】女ひとり“タコ部屋”に放り込まれる
【中編】ディーリングは自分の意思表示
【後編】挑んでいけば世界は広がる
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