「為替が与えてくれた冒険と挑戦」 ― 佐藤三鈴 氏 [前編]
■満州から日本へ
満州電力に勤めていた父の関係で、私は中国の鞍山(アンザン)で生まれ、小学校1年生のときに終戦を斉斉哈爾(チチハル)で迎えました。終戦はそれまでの満州での私たちの生活を激変させることとなりました。終戦直後、日本の民間人は置き去りにされ、自力で生きて行くしかなかったのです。 私たち家族も略奪や乱暴を働くソ連兵に怯えながら、家の物を売って日々をしのがなくてはならなくなりました。
軍関係者やその家族は早々に帰国してしまい、民間人用の引き揚げ列車(石炭などを運搬する無蓋車)が迎えに来たのは1年後のことでした。列車が広大なコーリャン畑の真ん中で停車するたびにお金が集められ、機関手にお金を渡すとまた走り出す。目的地の葫蘆島(コロトウ)まで幾度となく同じことが繰り返されました。
鉄道が遮断されている場所は、線路を歩き、私は自分の体以上の荷物を背負っていたので、一旦座ると起き上がれなくて、線路の真ん中で、もう歩くのはイヤ! と大の字になって泣きました。日本に帰国してすぐに、栄養失調で亡くなった1歳半の妹は小学校3年生の姉が背負っていました。引き揚げる際に、中国人が母に、子供を置いていくことを勧めたが、母は断固として断わりました。
博多港に到着して、船の甲板から見える木々に覆われた山を指差して母が「三鈴、あれが日本の山だよ」と教えてくれました。初めて足を踏む母国日本でした。上陸したときに、ひとつずつ配給されたかぼちゃの入ったおにぎりは今でも忘れられない味です。
母方の祖母が住んでいる広島には原爆が投下され生存が分からず、父の親戚が三原に居る事が分かり三原に辿り着いたのです。終戦直後は、本当に貧しい生活でしたが、それでも田舎の生活にも慣れ、伸び伸びと元気な幼少時代を過ごしました。
■東銀が大学だった
県立三原高校では、進学コースに入っていて、私は大学に進学する気持ちでいましたが、3年生の夏休みに母から「うちには余裕がない。三鈴は女だから諦めて欲しい」と言われました。大学生の兄の他に私の下に弟がいたのです。一晩、布団の中で泣き明かし、大学への進学を諦めました。
就職試験は、父の知人の紹介で、東京銀行(以下東銀に省略)と大洋漁業を受け両方とも合格しました。東銀の試験は本店の食堂で行われましたが、大洋漁業の試験場所はグランドホテルで行われたので、大洋漁業に行きたいと担任の先生に言ったら「佐藤、おまえは何を言っている。東銀というのは、旧横浜正金銀行の伝統ある日本で唯一の為替専門銀行で、とても良い銀行だ」と東銀に行くことを強く勧められました。
このとき、まさか将来、自分が為替業務の中心である為替ディーラーになるなどとは予想もしていませんでした。私は、大学進学が叶わなかったけれど、東銀が自分の大学になってくれたと思っています。
入社して、八重洲通り支店の経理課に配属され、次に輸出課に回されました。輸出課では、L/C(輸出信用状)の内容をチェックして、輸出の承認をする仕事が担当でした。当時はまさに日本経済の急成長期。本田技研(現ホンダ)のバイクやN360の車などの輸出があれよ、あれよ、と言う間に急増して行った事が一番印象的でした。
私の席近くには為替の予約係がいました。その人は、輸出や輸入決済や外国送金の外貨ポジションを締めて本店につなぐ仕事をしていて、その時代は支店でも若干のポジションを持つことが出来、面白そうだから私もやってみたいとそれとなく話していたら、自分にその仕事が回ってきました。当時、女性の配置換えなど多くなく、非常に稀なことでした。
前任者の様にゆったりと仕事をしようとしていた思惑は、71年に起こったニクソンショックで外れてしまいました。この出来事によって、政府が中小企業の救済のために特別輸出予約を認めたので、書類の作成などで大忙しになってしまったのです。輸出産業がグーンと伸びていき、固定相場から変動相場に移行する過渡期に予約の仕事を経験できたことは、その仕事自体の充実感もさることながら、後の為替ディーリングへの足がかりとなりました。
東銀は、進取の気性に富み、自由で、個人の人格を尊重する行風が特徴でした。その一つの例として、行内では、上司の人でも、役職名で呼ばないで名前を呼んでいました。頭取や支店長と言えども例外ではありません。また、海外志向が強く、支店長のほとんどが海外勤務経験者であり、若手の男子海外派遣も多くいました。実際、東銀の国内店舗数は約30店舗程度と少なかったのですが、海外支店数は遥かに多かったのです。こういった環境は大いに私を刺激してくれましたが、まだ女性に海外派遣への門戸は解放されていませんでした。
■女子派遣でロンドンの“タコ部屋”へ
71年、東銀の女子派遣制度が開始されました。それは現在では想像もできないくらい画期的なことで、第1回生は大変話題となりテレビや新聞で大きく取り上げられました。初期の先輩たちの海外での活躍によって、女性も戦力になると評価され、この制度は定着することになりました。
女子派遣制度のスタートに私の心は躍りました。男性は転勤があるけれど、女性には転勤がない。自分はどうやってこれから働いていくのだろうと考えたら、このチャンスに賭けてみたいと思いました。
3期目に派遣試験を受ける意向を示したら、支店長室に呼ばれ、心配した支店長に「佐藤さん、君、これ読んでわかるか」とジャパンタイムスを差し出されました。たまたま金融市場の記事だったので意味は把握できましたが、実は、自分は、英語はあまり得意ではありませんでした。しかし、幸いにして試験に合格し、派遣生6名の中のひとりに選抜されました。
73年7月、ロンドン支店に赴任しました。私は、女子派遣の先輩たちと同様に、日本企業相手の仕事だろうと考えていたら、ディーリング・ルームだと言われて心底驚きました。ガラスで隔離されたディーリング・ルームは“タコ部屋”と呼ばれ怖れられていたからです。私は、気が強そうなので、男性ばかりの“タコ部屋”でも大丈夫と思われたのかもしれません。
アシスタント・ディーラーとしての仕事が始まりました。最初の難関はレートを聞き取ることでした。ブローカーに早口で英語でファイブファイブアラウンドパーなんて言われても、何のことだかさっぱりわかりません。
今でこそ多くの銀行も行っていると思いますが、当時は東銀だけが、ロンドンのクロージング・レート(引け値)を基にほとんどの通貨の公表相場を出していました。自分の取ったクロージング・レートで翌日の東京の対顧客レートが作成されると思うと、非常に緊張し、聞き逃すまいと必死になって “パードン”を連発すると、ブローカーはゆっくりと言ってくれました。
その頃は、米銀や英銀でも女性ディーラーは数えるほどしかいず、ましてや邦銀では私だけだったせいか、ヤングレディー! なんて呼びながら優しくしてくれました。同僚の男性トレーニーは自分たちだともっと早口で言われるとぼやいていました。
(中編に続く)
*2009年11月05日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
【前編】女ひとり“タコ部屋”に放り込まれる
【中編】ディーリングは自分の意思表示
【後編】挑んでいけば世界は広がる
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