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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「“得意淡然、失意泰然”で為替に臨む」 ―上原治也 氏 [前編]

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上原治也



■バスケに恋に、青春に悔いなし


小学校2年から3年生に掛けて初期の小児結核を患ったので、とにかく健康に育ってくれさえすればよいと思ったのだろう、両親から勉強も遊びも一切うるさく言われたことはなかった。朝晩の冷水摩擦と乾布摩擦で病を克服した後は、生来の腕白ぶりはとどまるところ知らず、一部の先生からは上原君とは遊ばない方が良いのではと言われていた。

当時、杉並区の田んぼにいたザリガニを捕らえてクラスメートに食べさせたら、全員口の回りが赤く脹れ上がってしまってPTAで大問題になったことがある。この件で母は学校に呼び出された。僕は、“ザリガニの寄生虫であるジストマが危ないから、科学雑誌を参照した上で、十分に茹でて食べさせたので問題無い”と主張したが、担任の先生には理解してもらえなかった。ただ、両親からこのことで咎めを受けることは一切無かった。


6年生になると回りの友達は皆、塾に行ったり家庭教師がついたりして、遊び仲間が乏しくなり、仕方なく、兄が通っていた中学のバスケットボール部の練習を見学しにいった。これが野球からバスケットボールに転向するきっかけとなった。指導に熱心な先生がこの中学にいて、在学中は常に杉並区で優勝し、東京都の大会でベスト8以下になったことがなかった。

成績が向上したのもバスケットボールのおかげかもしれない。チ−ムメートは勉強もできた。自分だけ成績が悪いのはまずいなと思い、3年生になってからは勉強にも励むようになった。高校は勉強とバスケットボールが両立出来る都立豊多摩高校に進学した。制服もなく伸び伸び自由闊達な校風の下、受験勉強を始めたのは高校3年の夏休み以降と記憶している。


大学では、1部リーグでプレーをしようと考えていた。当時、大学のバスケットボールは1部、2部、3部、そしてその他リーグに分かれていた。二つ大学を受験した内、合格したのは2部と3部を行ったり来たりしている上智大学の方だった。

その後、中学・高校と同窓だった今の妻と付き合いが始まり、大学時代はバスケットボールに恋にと充実した青春を送った。我が青春に悔いなし。


■下町からグローバルへ


就職する際にも、バスケットボールの社会人1部リーグでもう一度自分の力を試したいという願望は捨て切れず、当時、実業団のトップだった関西の某家電メーカーの最終面接まで残った。元々興味を持っていた不動産や年金なども含め幅広い業務を行っている信託業界と最後まで悩んだ末、三菱信託銀行を選んだ。三菱信託銀行は銀行界の持つ一般的なイメージとは違ったリベラルな雰囲気で、ここに惹かれた。この時の僕の直観は正しく、課長時代に、僕が苦しい立場に陥った時に、大いにこの社風に救われたのだった。


69年4月に入社して日本橋の下町情緒溢れる大伝馬町支店に配属された。人情の機微に触れるお客さま達とのお付き合いで、仕事や世の中の仕組みを実感した。6年間の支店経験の後、下町とはゆかりの無い国際部門への辞令が下りた。外国語ができるだけよりも、信託銀行員として現場の感覚がわかるような人材を投入しようという目的で、全く畑違いのところから人選されたようだった。自分は、年金や不動産の業務を経験したいと希望していただけに晴天の霹靂の思いだった。

しかし、国際部門に配属されたことが今の自分に結びついてくるのだから、人生の不思議な縁や運を感じずにはいられない。最初に配属された外国部国際通信課で学ぶことは、予想以上に多く、段々と為替に興味を持っていった。外国為替の事務は直接やらなくても、テレックスの文面から外貨の流れや勘定科目・起票の仕方を理解した。その結果、為替が何たるかを知ることができた。この事が、後にディーリングを経験するうえで大層役立つことになる。


■本当の自己売買の世界で揉まれる


三菱信託銀行のディーリングルームでの2年間を経て、77年11月にウェスト・ドイチェ・ランデスバンク(西ドイツ銀行、略称ウエストLB)東京支店に出向した。海外拠点を入れても1年3ヶ月間の短い期間であったが、この時の経験が現在の自分の価値観を支えていると言っても過言ではない。資金取引も含む本格的なディーリングに足を踏み入れた。

このとき初めて、プライシングは必ずツーウェイプライスを出すように指導された。目からウロコが落ちたようだった。当時の邦銀は、輸出決済が多いところは、“ドルを売り”たいし、信託銀行など輸入決済が多いところは、ネットでどうしても“ドルを買い”になるということが背景にあったから、旧東京銀行を除けば売りたかったら売値だけ、買いたかったら買値だけしか提示がなかった。


しかし、外銀では全くそういうことはしない。プライスを聞かれたら、どんなにつらくても必ずツーウェイプライスを出す。このことによって、ディーリングという感覚が初めて磨かれた。自分でプライスをずらしながら、ここでサポートプライスを出して打たれたら、今度はグッと寄せて、何とかこれを買ってもらおうなどと工夫をすることも覚えた。外銀には本当の自己売買の世界があった。この事は後に経験する金利取引でも役立った。
 
損切りルールを含むリスク管理もウエストLBの方が当時の三菱信託銀行より、きめ細かく行っていた。ディーリングをやっているトレジャリー部門と、それを後ろからしっかり管理・監督している部署との部門の垣根がきちんと保たれていた。そのため、マーケットの実勢レートとかけ離れたプライスがつき、価格がおかしい場合はすぐに聞かれる等、管理がしっかりしていた。


ディーリングのヘッドは相場感覚に優れたドイツ人のトレジャラーで、気の良い頑固者で自分とは馬が合った。彼は若干時間にルーズであった為、東京市場が開く前の朝早い西海岸からのディールや夜からのロンドン・欧州時間は、自分で仕切る事にならざるを得なかった。この事が将来役に立った。

(中編に続く)

*2009年10月26日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)


【前編】外銀出向で為替に開眼する
【中編】儲けの源泉は先物為替
【後編】壮大なチームワークと装置産業がリカバリーの礎



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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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