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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「知性と勇気と情熱がディーラーの条件」―宮崎晃一 氏[前編]

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宮崎晃一



■早熟な異端児


物心ついた頃には、花柳界に精通していた祖父に、赤坂のお姐さんのところや歌舞伎見物に連れて行ってもらっていた。親父は堅物だったが、僕は、祇園の芸妓と駆け落ちをしたという祖父に圧倒的に似ている。

祖父の影響のせいか早熟なタイプだった。中学生になると一人で放浪を始める。北陸で山代温泉や山中温泉で紅殻格子の旅館に泊まったり、3年生の夏休みには高校受験のための模擬テストをサボって九州に出掛け、両親や先生からこっぴどく叱責された。

勉強をしていない割に成績は悪くなく、進学校の都立戸山高校から東大へと入学したはいいが、その内、芸者の娘と一緒になると言ったら、猛反対され、勘当同然で家を追い出され、仕方なく赤坂の芸者置屋茂松田のお鯛姐さんのところに転がりこむことになる。結局、この騒動は彼女が心臓病で亡くなり、悲恋に終り落着する。


僕自身は本当に平凡な人間なのだけれど、高校時代に付き合っていた連中は不良や落ちこぼれ組、学校の外でも役者、芸者、声色屋、乾物屋、佃煮屋などが多かった。自分にはこういった人達の方が、断然魅力的だった。僕が銀行員になった時、余り経済観念のない連中が、皆預金協力に来てくれた。山本ひさしという有名な声色屋のお爺ちゃんには、奥さんにばれぬよう家の天井裏に隠してあった当時の1,200万円もの大金を紙袋に詰め込んで持ってこられてびっくりした。

谷崎潤一郎や永井荷風などの耽美派の影響で、歌舞伎や情緒的な世界にますます憧れた。大学時代は歌舞伎研究連盟(歌舞研)にのめり込んでいった。歌舞研は学園祭で歌舞伎を演じる他に、歌舞伎鑑賞が主な活動だった。歌舞伎座にタダで入場するにはちょっとしたコツがあった。正面玄関から大きな声で堂々と「おはようございます!」と挨拶しながら入っていく。関係者と思われてしまうのだ。当時3階にあったおでん屋の小川さんというおばさんに茶飯とおでんをご馳走になってから、歌舞伎を鑑賞するというのがいつものパターンだった。


■自由奔放な生活から一転してディーラーへ


歌舞研時代は松竹にお金を出してもらって、イタリアとバチカンを訪問した貴重な経験もしている。ローマカトリックを扱った出し物「細川ガラシャ夫人」を歌舞伎座で公演していたことから、ローマ法王から感謝の書簡が歌舞伎座の大株主である松竹に届いたと聞きつけ、日本から歌舞伎座紹介の使節団を出すべきだと大谷竹次郎会長に直談判して承諾をもらい、3ヶ月ほど掛けてヨーロッパの大学などを回って、一生懸命歌舞伎を紹介した。ローマ法王は避暑で不在だったので、第二枢機卿に面会することができた。

こういった学業以外のことばかりに専念していたため、大学には他人の倍近く在学することになってしまい、学生課から卒業できなくなると言われて、慌ててもうどこでもいいやと就職活動を開始したような具合だった。当時は、売り手市場だったから幸いだった。三和銀行に決めたのは、何よりも山本達也という人事部長が面白かったからだ。豪放磊落で、とにかく変わった人間ばかり採用している人だった。それに、銀行に入って今までの生活を変えたかったこともある。好き放題やってきたそれまでの生活に何となく物足りなさを覚えていたので、銀行だったらまともに生活できるようになるのではないかと思った。


70年に入行して、本郷支店や虎ノ門支店で一般的な銀行業務を経験した。為替ディーラーになるきっかけは、75年頃から始まった銀行の国際化だった。国際部門にどんどん人材が投入されていき、外為研修制度を創った虎ノ門支店時代の先輩の推奨で10人の外為研修生の一人に選ばれた。

将来、海外に行って国際部門で活躍するための勉強をさせる外為研修制度は1年の期間だったが、僕は半年足らずで資金為替部(後の国際資金証券為替部)に異動させられた。自分のそれまで歩んできた道からすれば、まさか自分が為替ディーラーになるなどとは夢想だにしなかった。

最初は、銀行全体のポジションをつかむ、つまりドル買いになっているのか売りになっているのかをつかんでいく仕事から入るのだが、僕は外為研修生だったから、すぐに先輩の見よう見真似でディーリングをすることになった。レートを聞きにいくのはテレックスだけだったし、時間遅れで回ってくる情報を見ながらディーリングするなんともいい加減なディーリングだったが、当時、円以外はリアルタイムで把握は出来ないのだから、これでやるしかなかった。


■「ステータス向上」に奔走


僕は、どちらかというと、デイトレードよりも、でかいポジションをどんと持って、トレンドに乗って大きな波を大きなポジションで取りにいくマネージャーズポジションのディーリングをやっていた。1日中売ったり買ったりするのは、アングロサクソンにはかなわないから、トレンドディーラーになろう、自分の土俵で戦おうと考えた。当時の為替は、アメリカの政治を見ていればだいたい予想することができたので、余り負けることはなかった。その結果、僕は優秀だと評価されたのだと思う。頻繁にワシントンやニューヨークを訪れて、Fed(米連邦準備銀行)の連中や、ホワイトハウスのロビーストなどとつき合って情報ソースを築きあげたことが功を奏している。

僕が次長と副部長の時に、ディーリングに関して、社内で経営陣を説得していくことが一番大変だった。まずディーラーの人材に対して人事部長に注文を付けた。ボクシングでも最初から負けるとわかっていて戦うやつなんか絶対に負けてしまう。絶対に勝つという自信家を揃えないと駄目だと思ったので、ディーラーには一次選抜の人間だけを選んでもらうことにした。


そしてディーラーのステータスを上げる懸命の努力をした。それはデンマーク王国に貸し付けたシンジケートローンのロンドンでのサイニング・セレモニーに出席した時の出来事がきっかけだった。欧米のディーラーは、報酬はたくさんもらっていてもステータスは大変低い。僕がディナーの席で、為替ディーラーだと自己紹介したら、ああ、そう、と返事されただけで後はまったく無視されてしまった。邦銀のディーラーは銀行員なので給与体系も他の銀行員と全く同じだ。これでステータスが低かったら最悪だ。

当時、急拡大した東京外為市場に進出した外銀が、東銀を筆頭に都銀の為替ディーラーをヘッドハントし始めていて、人材の流出が続いていた。どうしてなのか調べたら、お金よりも自分がしたいことを自由にさせてくれない、例えばドルを買いたいのに買わせてくれない理由の方が大きいことが判明した。為替課長が中心になって、ディスカッションをし、買おうとなったら、部全体が買いから入ることになる。しかし、どうしても売りたい人がいる場合、自分の思うとおりにできないから不満が残ってしまい、それで辞めていくというパターンが一番多かった。それを防ぐために創られたのが、「背番号制ディール」だった。 

(中編に続く)

*2009年9月29日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/構成:香澄ケイト)


【前編】「ステータス向上」と「背番号制ディール」
【中編】チーフディーラーに贈る言葉
【後編】勇気を持って革新を





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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