「終わりなき“生き残りのディーリング”の追求」 ― 久保田進也 氏 [中編]
■ニクソンショックに緊張の日々
ニクソンショック当日、友人と一緒にゴルフをした後で僕の家で食事をしながら、午後9時からのニクソンの演説を見ていたら、「ドルと金の交換を絶つ」と大変重大なことを言っている。友人に帰ってもらいすぐに日本との連絡を始めた。ちゃんと確認を取ろうと、ニューヨークタイムズの早刷りを買いにマンハッタンまで40分ぐらい車を飛ばして行ったら、日曜日なので、普段、街に出ている新聞スタンドが全部休み。それでニューヨークタイムズの本社に行って早刷りを買った時は深夜になっていた。
そしてトレジャラーの自宅に飛び込んで、内容を全部チェックして、それからまた日本に電話して、日本の輸出契約については、すぐヘッジする方法を考えようということになった。ニクソンショックは全く未経験の相場だった。一体これは何なんだ、でも崩れるかもしれない。だったらその崩れる前に何かしなくてはいけなかった。ニクソン声明後、各国の為替市場は閉鎖されたが、東京市場だけは10日程開いていた。ニューヨークから全部ドルを輸出前受け金の形で送って現金化すれば、360円時代のレートでドル売りができた。そこから10日間程は、ともかくあるドルを全部日本に送金するためのやり繰りで大混乱だった。
ニクソンショックで一旦変動相場になったが、それが維持されるのか、固定相場制へ復帰するのか。だとしたら、新しいレートはいくらになるのか。この間、極度の緊張を強いられる日々が続いた。結局71年の12月のスミソニアン合意で308円の固定相場制に復帰したが、スミソニアンは短命で73年2月に変動相場制に移行することになる。
■相場観に狂いが生じて苦しい状況へ
72年3月に帰国し、財務部為替予約課に配属された。ドル建てが大半の輸出契約では、ドルをどの時点でどう円に換えるかは輸出契約をした時点から発生しているリスクだ。それをどのタイミングで、先物でドル売り予約を入れるかといういわゆるヘッジ売りが主な仕事だった。当時、日本にはまだ実需原則が存在していて、商社は商業取引以外の為替取引ができなかった。輸入と輸出が同じ金額で同じ日に出れば何もしなくても相殺される。せいぜい、それを何もしないで合わせたままにしておくか、またはドルが下がると思ったら、輸出の方の予約を先にして輸入の方をわざとずらしてポジションを作る「リーズアンドラグズ」の手法を取るぐらいしかできなかった。
76年4月に課長になった。本当に自己勘定でディーリングするようになったのは、84年に実需原則が撤廃になってからだった。その1年ぐらい前に、インパクトローン(使途に制限のない外貨貸付)が借りられるようになったので、その仕組みを使ってディーリングに近いことをやりだした。法令に反しない許された範囲内でのオペレーションだった。そんなこともやっていたおかげで、実需原則が撤廃した途端に、商社の中ではいち早く、ディーリングをスタートすることができた。僕は、ディーリングはとてもやりたかったから、自由に自分の相場観でやれるようになったことに心の底から喜びを感じた。会社の方もこのような変化を受け為替証券部を創設、為替予約課も為替業務課と名を変えた。これによりディーリングによる収益追求も仕事の一部となった。
85年9月のプラザ合意から、ディーラーとしての本当の戦いが始まった。しかし実は、85年前半は、自分は相場観がものすごく狂っていた。この時期に部下と相当やりあっている。僕の相場観が違うと言う部下は、僕の側に座り込んで、「久保田さん、何やってんですか。こんな時に何をやるんですか」と提言してくれたが、僕は自分の考えを固守していた。小さなポジションは、それぞれ勉強の意味もあるから自由にやってよいが、大きなポジションは僕の方針でやることになっていた。
ドル円は85年2月の270円台をピークに徐々に下げ始めていたが、僕はまだドルは高いまま残るのではないかと予想していた。だから、基本的なポジションが、どうしても買い持ちから入ってしまう。特に4月から毎月おかしくて、損がずっと取り返せないで来ていた。
■プラザ合意に救われる
9月20日頃に米倉功社長に呼ばれた時に、「社長、もう中間決算まで日がありません。だから、もう今期は無理しません。来期、頑張りますから、一応この損には目を瞑ってください」と言ったら、社長はニヤッと笑って「カジノじゃな、つかないディーラーっていうのは取っ替えるんだぞ」とポーンと一言だけ言われた。そろそろ替えられてしまうのか、と悄然としていた直後にプラザ合意が起こった。
9月22日の日曜日、酒匂隆雄さんが、通貨当局者が一堂に会した模様という記事が日経新聞に載っていると連絡してきた。僕の住む千葉は早刷りではなかったので、急いでキオスクに新聞を買いに行って同じ記事を確認し、二人で意見交換し合って、これはなんかおかしいから明日の秋分の日に出社しようと決めた。
「今期はもう無理はしません」と社長に言ったが、プラザ合意は何か新しい動きであることは明白だった。出社したら方向ははっきりと決まっていた。もう売りしかない。そこからめちゃくちゃにドル売りで入っていった。ともかく朝から出るビッドを全部叩くぐらいのつもりでやった。234円台から236円台まで飛んだのをバンバーンと叩いたらドンドン下がって230円を割り、ニューヨークで226円台まで下落して、その日は成功した。
しかし、翌日休みが明けたら、今度は日本の輸入業者が猛烈な勢いで買ってきた。日銀も必死になって介入したのだが、かつてないほどの買いのボリュームにとても収まらない。僕らは230円を割れた辺りから利食って行って、226円までで全部終わってしまい1回戦終了でここで止めておけばよかったものを、228円台から230円台に戻ってきたので、もう1度ショートを作ったら買いの勢いに跳ね上げられてしまいどうしようと思った。しかし、この日以降からドルは継続的に下落していった。
9月30日までの間に、4月から9月20日までに積み上げた損が全部消えた。プラザ合意に救われたのだ。その後、10月1日から3月31日までのディーリングでも、ドル売りで大きく利益を得ることができた。85年前半はあれほどおかしなオペレーションをしてしまったのに、収益的に最良の年に一変した。大荒れに荒れた相場の中で、自分自身も大いに揉まれて、なんとか生き残り、非常に幸せな年になったのだった。
(後編に続く)
*2009年7月30日の取材に基づいて記事を構成
(取材/構成:香澄ケイト)
【前編】自由なディーリング時代の幕開
【中編】本当の戦いが始まった
【後編】為替は自分を磨き上げてくれた
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