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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「為替との巡り合せは大きな財産」 ― 大倉孝 氏 [中編]

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大倉孝


(前編はこちらから)


■プラザ合意と大格闘


82年の夏過ぎから、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドンなど主要拠点を1年近く回って為替だけでなく資金取引の研修を受けている時に、急に東京のトレジャラーからチーフディーラーとして帰ってすぐにスポットをやってくれと電話があった。それまでチーフディーラーは自分よりも20歳も30歳も年の離れた人たちがやっていた。BOAにも市場にも急速に変化が訪れていた。その帰結として、僕はチーフディーラーのポジションで世紀の一大イベントである85年9月22日のプラザ合意に遭遇していくことになるのである。
 
83年の夏から本当の為替漬けになった。24時間ずっと相場を追いかけるような毎日でも好きだから苦にならなかった。まだ30代前半でエネルギーに満ち溢れていたから、訳の分からないまま飛び込んで行って、もうとにかくネットで儲かりゃいいんだという考えでディーリングをやっていた。チーフディーラーになってポジションは最大で5,000万ドルぐらいまで持つことができた。


新米ディーラーの頃の50万ドルとか100万ドルのポジションと比べれば格段の差だ。90年に生涯で最大級の250本(2億5,000万ドル)のポジションをある期間持ったのはドル円が160円台の高値まで反発した時で、その後145円台が戻しの高値だったが、158円ぐらいからずっと売り上がっていったので、本当に死にそうな思いをした。プラザ以降、当局から、スワップや外貨のポジションの規制が出てくるまでポジションは銀行ごとに決められていたが、当局よりも銀行内部のルールの方がもっと厳しかった。

プラザ合意前に40本程(4,000万ドル)ショートを持っていた。既に1カ月ぐらい転がしていて、じりじりといった感じでは落ちてきていて、20日の米貿易収支発表を受けて1円50銭ぐらい落ちた時点で半分程利食った。20日のニューヨークの引け値241円台からプラザ合意明けの23日月曜日に香港から更に落ちだした。この日東京は秋分の日で休場だったので、当時東京からニューヨークに研修に行っていた山中康司さんに電話して、230円ぐらいまで落ちる間に残り全部を利食ってしまった。


週末に一部の銀行には日銀から声が掛かっていたようだが、シティ、チェース、モルガンと違ってBOAは、当時エージェント(介入行)ではなかったので、秋分の日は出社しなかった。介入を委託される銀行は、確実にアドバンテージを持って臨めたと言えるが、介入の方向が市場の流れと逆になるために、それなりの戦略をもってやらないとうまくいかない。この時の経験はプラザ以降の後の戦略でも生かされたのではないかと思う。

24日朝、上機嫌で出社したら、ディーリングルームはもう騒然としていて、若い部下が「お客が皆ドルを買ってくるので、(うちは)もう1億ドルぐらいショートになっています、どうしましょう」青い顔をして訊いてきた。放っとけ、と答えながら直ぐに日銀のBOA担当者に電話したら「大丈夫、絶対介入して落とすから」ときっぱりと言われたが、東京が始まった時に232円台まで持ち上げられてしまい、その後介入は確かに入ってきてヒュッヒュッと落ちるがせいぜい1円程度。そこで客玉の分を全部買い戻す。再びショートになって次の介入を待って下がったところで直ぐに買い戻して利益を出すということを繰り返した。

その日は220円台の後半まで下げる場面もあったが、結局東京は230円台で終了した。後にも先にもあんなに買いの客玉が来た日はないし、めちゃくちゃ儲かった日もない。お客は30年分ぐらい買っているのではないかと思うぐらい買っていた。客玉がすごく来たというのは、米系3行は特に突出して日本の客との取引が多かったからだ。そんな客玉にも関わらず、自己勘定ではその日も含めてドル円のショートポジションだった。


■刺激を受けた凄いディーラーたち


収益に関してはプラザ前のポジションで数億円。プラザ明けの初日は30分毎に億単位の儲けが出て週末を挟んでわずか2日間で数十億円の利益があった。その後の流れも円高になっていくが、1日あたりで見てこの2日間の収益を超えられる日はもうなかった。プラザ合意からそれ以降、変動率がとても高かったことに助けられ、毎月10億円単位の儲けを出すことができた。

ボーナスは、普通のボーナスだけで、ディーラーだからといって特別ボーナスなんてなかった。シティもチェースも多分なかったと思う。ボーナス制度がルール化していくのは80年代の終わりくらいからだ。最良のパフォーマンスを叩き出したプラザの時だって、BOAは、お金よりもまだ名誉を重んじるみたいなところがあったからかもしれないが、アメリカの本店に呼ばれて役員の前でサンキューレターと600ドルの小切手をもらっただけだった。


興銀の為替課長だった中山恒博さんとは、東洋経済で中山さんが為替ディーラーと対談するシリーズに呼んでもらったことがきっかけで知り合った。プラザから2年しか経っていなくて、邦銀のディーラーを軽視したような鼻息の荒い生意気な若造だったが、中山さんと話す内にこちらの勉強不足が透けて見えて大いに啓蒙させられた。あの頃の邦銀の為替課長というのは、本当にものすごい存在感があった。

BOAには彼ほどの知識を持っている人がいなかったし、その後、自分が海外を回ってロンドンやNYで人脈を増やすことになる必要性を教えてくれた人でもある。BOAは顧客玉だけでも十分儲かるようなシステムで、それゆえに国際業務に秀でているチェース、シティ、モルガンや欧州のインベストメントバンクと比べると情報量などもひどく劣っていた。中山さんの部下だった澁澤稔さんや花井健さんの二人も優秀なディーラーだった。


僕と同い年のチャーリー中山(茂)さんは凄いディーラーとして広く名を馳せていたが、そればかりでなく、30代半ばの若さで、新聞に当局の批判から何から全部する。これがちゃんと筋が通っている。その頃の東京市場は暗部みたいなのがあって、慣行がまかり通っていたし、一部の邦銀、特に東京銀行に仕切られて牛耳られている部分があった。チャーリー中山さんは、それはおかしいと反旗を翻した急先鋒で、彼はずっとその姿勢を貫いていく。

93年にファーストシカゴに移った時、坂本軍治さんが支店長で僕のボスだった。坂本さんが凄いのは、一つ一つの経済指標をとってみても、決して金太郎飴のようでなくやはり坂本軍治独特の切り口で、こういう考え方があるんだと感銘した。BOAの時はそんな人は誰もいなくて、実際に一緒に働いてみて刺激を受けたのは坂本さん一人しかいない。とにかく凄い人だった。

(後編に続く)

*2009年7月7日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/構成:香澄ケイト)


【前編】人生で勝負できる仕事
【中編】好きだから苦にならず
【後編】丁々発止と為替をやってきた





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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