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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「ディーラーは打てば響く天性の仕事」 ― 酒匂隆雄 氏 [後編]

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酒匂隆雄


(前編はこちらから)


■介入するは我にあり


9月22日のプラザ合意前の19日・20日頃からドルが急速に落ちてきていた。その時のドル円の為替レートは1ドル=240円前後。ドルが下がり過ぎている、嫌な感じだと思った。それで、22日日曜日に横浜の家に来た日経の朝刊を見たら『ニューヨークのプラザホテルで先進国の中央銀行総裁・蔵相が集まって秘密会議をもった模様』という小さな記事が出ていた。高くなり過ぎた米ドルのレートを修正するために協調してドル売り介入を行おうとする秘密裏になされた合意のことで、その頃はG5や G7なんてなかった時代だ。

それで、ある商社の課長に電話してみたところ、千葉に住む彼は早刷りの千葉版には載っていないと言う。急いでキオスクに新聞を買いに行って同じ記事を見た彼と意見交換をしたが、我々はそんな経験したことないからよく分からない。でも、よく分からないけど、先週からのドルのおかしな動きから、翌日23日秋分の日はお互いに出社することにした。今から考えると何となく変な動きをしていたのはやはりプラザ合意のことを知っている人がいたのだ思う。


邦銀は日銀から召集があったらしいが、外銀は呼ばれていなかった。一人で出社して日銀に電話すると介入を手伝ってくれと頼まれた。ドルをぶち落とすと言う。それでシドニーや香港でドルをバーッと売っていった。今でこそ、プラザ合意は為替を大きく動かした一大事件のように言われ半ば伝説化しているが、その当時はまだ中央銀行の協調介入ということさえ知られていなかったから、マーケットはこの程度の売りは大したことはないとばかりに買い向かってきて、ドルは売っても売ってもマーケットに吸収されてしまって下がらない。結局、ドルをパンパンになるまで売って、1日が終わったら数千万円の損を出していた。

釈然としないままどうなっているのかと日銀に訊くと、心配しなくても大丈夫と言われ、その後ピシッと数日で20円ぐらい落ちたので、損失も2・3日で埋めることができた。プラザ合意を自分の勘で考えていったら、本当に何かが起こっていて、協調介入をしたということが自分の為替人生の中でも一番印象的なイベントでディーラー冥利に尽きるものとして非常に強く心に残っている。


介入に関してのエピソードはもう一度ある。1990年1月2日の夜10時にNHKで、1ドル=155円あたりから5円くらい円高ドル安になったというニュースが流れたので、介入が行われると直観した。それで3日、1人でモルガンのオフィスに行き、日銀に電話をすると、どうして我々がいることが分かったのかと訊いてくる。昨晩のニュースを見て、介入すると思ったから来たと言うと「介入お願いします。実は、今回は誰も頼んでないんです」とまた介入を依頼された。それでシドニー、シンガポール、香港で買った、買った、今度はドル買いだ。

正月の三が日だというのに、食べ物も酒もまして暖房すらない状況で、朝8時から夕方6時まで、東京マーケットで介入に参加していたのは自分だけだった。この時はプラザ合意とは違ってすぐに利益を上げることができた。6時になり、英中銀に委託介入をお願いしましたからと告げられようやくお役御免になり、後から日銀総裁からお褒めの言葉をいただき非常に嬉しかったが、ディーラーにとって勘はやはりどこかで必要なものであるということを改めて認識した出来事だった。


■損することを怖れない


為替というのは、化け物のような理不尽な動きをする。理不尽な動きをするのに我々のようなまっとうな人がちゃんとやっても無理だと思う。理不尽な動きをするものに対してはちゃんとディシプリン、つまり損切りを行うこと、分からない時にはやらないこと、そしてのべつ幕なしにやらないことなど、規律を持って立ち向かうしかない。説明できない動きをするものだからこそ、自分の判断が間違ったと思ったら、さっさと手を引く。つまり謙虚さを失わないことが、ディーラーとして成功するための大事なファクターだ。

僕は損をしたくないから、自分が間違えたと思ったら、もう面子なんか捨ててバッと切ってしまう。上がると思って買ったけど下がりだしたら切る。損を怖がることは非常に大事。また、緻密にやるというのができないとダメだと思う。緻密というのは、全体を見ながら、俺は何をやっているのだろうかというのを考えないと、ディーリングは勝てない。


僕はチャーリー中山さんのような偉大なディーラーでもないし、坂本さんのような伝説のディーラーでもなく全然普通のディーラーだ。そんなに大きく損したこともすごく儲かったことも、すごく苦悩して死にそうなったようなこともない。やることはしっかりやるけれど、ディーリングは朝7時から夜6時で終了する。相場で命を削っても仕方がないし、目を三角に吊り上げて勝負をしても大した結果は出ない。それよりも早目に発想の転換をすることを心がける。こう言ってはなんだが、僕はディーリングを「イッツ・オンリー・バンクス・マネー」(しょせん銀行の金)の考え方をベースにひたすら損を最小限にすることを心がけてきたから、30年以上ディーラーを続けることができたのだと思っている。ディーラーとして長生きできるかどうかの分かれ目は、どれだけ損を小さく抑えられるかに掛かっている。

また、勝負の世界では、勝負の最中に冷静さを失ったら、まず間違いなく負ける。為替も同じで、ディーリングの最中はとにかく冷静であるべきである。熱くなった時点で負けるから、とにかく冷静さを維持できる仕掛けを作っておかなければならない。その一つが損切りなのである。損切るのは自分が新しいポジションを取った時に機械的に入れればそれほど難しくはない。どこで切るか、値幅でやるのか、パーセンテージでやるのか、自分で勉強するしかないが、必ず置かなくてはいけない。


■凄いディーラーは利乗せができる


一方で利益を伸ばすのは一番難しい。なぜかというと、下手をすると、絵に描いた餅になってしまうし、大きなトレンドを失う可能性もあるからだ。112円から92円に行ったとして、じゃあ、20円取れたかというと取れていない。どうしてかといえば、人間はやはり途中で切ってしまうからだ。損は我慢するけれども、利益は非常に速く利食ってしまうので、終わってみたらマイナスが多いということになる。

凄いディーラーだと強く思ったチャーリー中山さんは損している時はスパッと切るが本当に儲かると思ったときは果敢に攻める。自分が思った方向に相場が行っていたら、パンパンのどでかいポジションを持っている。自分の相場観を信じて利益が出てきたところで、さらにその利益を最大化するためにポジションを増やしていく。折角どこそこまで行くと宣言していても、普通は直ぐに利食ってしまい、そこにたどり着く頃はポジションなんてほとんど無い、というのが普通のディーラーだが、彼は飛び抜けて利乗せができた。何よりも自分の相場観がしっかりしていなければこういうことはできない。


チャーリー中山さんのことは戦友と思っていて、市場が終わると彼とは週一くらいで飲みに行き、傷を舐め合っていた。彼や堀内さんは我々にとって第二世代に当たる若くて元気で優秀なディーラー連中で、彼らとは戦っていたというよりは、お手並み拝見という感じで市場でわざとぶつかりあったりもした。

ある程度の年齢になってくるとマネジメント業務が主体になってきてディーリングとマネジメントを両立するのはなかなか難しくなってくる。モルガンはそのことをよく分かっていたから、85年あたりからもうディーリングは若い人に任せて、おまえはマネジメントに専念しろと言われた。今でも、現役を退いて色々な人と仲良くできているのは、売ったり買ったりだけに専念しなかったからだと思う。為替は情報が命、そう考えているから僕は人に会うのも大好きだし、そういうことを大事にしている。


■不義理をせず、理不尽なことをせず


ディーリングルームで声を荒げることは全くなかったが、僕は理不尽なことが嫌いなので、ブローカーやお客さんには怒鳴ったことがあった。90年代は、まだ誰が売った誰が買ったということを話す習慣があった頃だが、自分が働いていたモルガンやUBSは内規で守秘義務があって話してはいけないことになっていた。カスタマーディーラーが「お客さんから、さっきのUBSさんの売りは何なのか教えないと取引しないと言っている」と言う。それならば取引しないで結構とバーンと言ったら、先方の部長が「おっしゃる通りです、申し訳ない。ちょっとうちの若いのが熱心で、どうも履き違えた」と謝りに来た。ある邦銀とは6ヶ月間ラインカット(取引停止)をしたことがある。そこのチーフディーラーが理不尽な態度を示したからだ。これは大問題になったが、そこの為替課長が謝りに来てくれたので取引は復活した。理不尽なことは許さないけれども、ちゃんと筋を通してくれたら全く水に流し、逆にその後の関係は良好になることも少なくなかった。


こうして振り返ってみると偶然の出会いが人生を創っていくのだと思う。なし崩しに横浜銀行に入り、外国為替をやらせてもらい坂本さんに会えた。そして自分自身の判断で外資系銀行の世界に飛び込んで行った。相場ではずいぶんと負けたが、幸せなビジネスキャリアを積むことができた。UBS銀行東京支店長を最後に現役ディーラーからは足を洗ったが、今でも気持ちは現役のままでいる。唯一、普通のディーラーである僕にとって誇れるものがあるとしたら、それは友人が多いことだ。

今でも「Once a dealer, always a dealer」の認識を持っている仲間たちと昔と同じ感覚で付き合っていけることこそ、真のディーラー冥利に尽きるのだと思う。

(全編終了)

*2009年6月18日の取材に基づいて取材者が記事を構成
(取材/構成:香澄ケイト)

【前編】邦銀から外銀への第一号
【後編】ディーラー冥利に尽きる





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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