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【The FxACE】ディーラー烈士伝

「ディーラーは打てば響く天性の仕事」 ― 酒匂隆雄 氏 [前編]

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酒匂隆雄



■田舎から湘南そして北海道へ


“うちは裕福ではないが、教育だけはきちんと受けさせる”という両親の方針で、汽車で片道1時間半掛けて受験校で有名な広島の修道中学に通学し猛勉強させられていたが、修道高校1年生の時に公務員の親父の転勤で神奈川県平塚市に引っ越すことになり環境は一変した。とんでもなく田舎だった広島県賀茂郡西條町(現東広島市)と比較すれば湘南は都会で、やんちゃをして「野つぼ」に落ちたことが信じられないほど水洗便所が一般に普及しているのが衝撃だった。


何よりも嬉しかったのは編入した大磯高校が男女共学だったことで、俄然勉強意欲は湧かなくなってしまったが、3年生になり担任の曽雌先生に「私大に行って英語を勉強して、将来商社に入りたい」と言ったら「お前、成績良いのになぜ国立に行かないんだ」とひどく怒られ、毎週土曜日先生の住む二宮まで通い熱心に特訓してもらったおかげで、2つの国公立大学に受かることができた。大磯高校ではそれまで誰一人国立の大学に行った者はいなかった。

NHKの新日本紀行という番組で見た北海道の大自然に憧れ、大学は北海道大学に行くことに決めた。おふくろは下宿するとお金が掛かるからもう一つ受かった横浜市立大学へ行くのを望んだが、僕の心はもう北海道に飛んでいた。好きな英語の部活に入り、勉強は普通にやっていたが、麻雀にのめり込んだ。北海道の冬はすることがないし、それに不幸にも1969年から70年に掛けて学園紛争の嵐が吹き荒れ、4年生の時に学校が全部封鎖されたため、勉強したくても勉強するチャンスがなかったからだ。だから僕は「北海道大学経済学部麻雀学科卒業」だと思っている。


■運命の使者は或る日突然に


大学3年の2月、北大の先輩で横浜銀行の人事担当者が突然下宿を訪ねてきて、横浜銀行を受けてみないか、としつこく勧誘する。僕は絶対に受けませんと抵抗した。親父に先生と銀行員は大変だぞと常々言われていたし、口約束だけど商社に入る予定になっていたからだ。しかし、先輩は既に「酒匂隆雄21歳」と記された翌朝10時の千歳発羽田行きの飛行機の切符を用意していた。


先輩の言うようにタダで帰省できるからまあいいかと自分を納得させ、同じ下宿の後輩から借りた学生服を着て羽田に降り立ったら、人事部が迎えに来ていて、そのまま銀行の車で横浜銀行の本店に連れて行かれ8人の重役の前に座らされた。

重役の一人が「尊敬する人は誰ですか」と質問した。「父です」と答えたら、普通は政治家や偉人と答えるものですよと笑われ、理由を訊かれたので「父は終戦を北京で迎え、財産を全て没収されたが、蒋介石の『恨みに報いるに徳を以ってす』のおかげで乳飲み子の兄を連れて命からがら引き揚げてくることができた。だから目上の人や尊敬すべき人を大事にしろといつも言っている。それにそんなに裕福でもなかったのに、兄と僕を国立の大学に入れてくれた。そんな父親を尊敬することの何が悪いんですか」と言ったら全員がシンとなった。


入行面接を受けるつもりで行ったわけではないので、言いたいことをずけずけ言ってそれで帰ろうと思っていた。どうせ受かるわけはないから、と突然帰省した息子に驚く両親に話していたら、その翌日「採用です。印鑑を持ってきてください」と連絡があった。この時点でも入行する気持ちは全くなかったが、親父に「それなら丁重にお断りしてこい」と言われたので、とりあえず銀行に出向いた。担当者は「これからは銀行も面白い時代になるのですよ。うちはグローバル戦略を考えているのであなたのように一風変わっていて英語ができる人が必要なんです。ぜひ来てください!」そこまで言われれば嬉しくないはずはない。それに横浜銀行の人達と食事や麻雀を一緒にする内に、なんだか浪花節的な感情を抱くようになってしまっていた。印鑑は持って来ていなかったので、代わりに拇印を押して、銀行員として社会人の第一歩がスタートすることになった。


■「立ってろ!」で鍛えられる


70年4月横浜銀行元町支店に配属され、2年間そろばんやお札の勘定など銀行員としての基本業務を学んだ後で、入社担当者に示唆された通り3年目に本部要員として、総勢6名の外国部外国為替課に転勤になった。当時横浜銀行は東京外為市場や金融市場で活躍しており、地銀の雄として一目置かれていたのはチーフディーラーの坂本軍治さんの存在が大きかった。当時は他の銀行の手口が全てオープンになっていたので坂本さんはあの銀行がなぜこういうことをやっているのかなどというのを全部メモして僕に教えてくれたりした。

坂本さんには厳しく鍛えられた。1日が終了した後でポンドやドイツマルクの持ち高を帳簿に書いて金庫に入れるのだが、翌朝金庫を開ける前に、坂本さんに「昨日のポジションいくらだ」と訊かれた。「今から出します」と言ったら「バカヤロー!お前、自分が書いた俺の外貨エクスポージャー分かってないのか。関東大震災があったら金庫開かないだろう。だけど、ロンドン市場もニューヨーク市場も開く。外国為替とはそういうものだ。だから、自分が書いたポジションぐらい頭に入れとけ」と怒鳴られたり、ブローカーと電話で話していてあくびをしたら、「年上の人に電話しながらあくびとは何事だ。昨日俺と麻雀した。そんなの関係ないんだ。俺だって疲れている。でも、疲れるけどそれをやろうとする意識が大事なんだ。仕事の時は仕事をしろ、バカヤロー!」と2時間立たされたこともある。


おかげで二度と同じ失敗はしなくなり、最後の方ではほとんど怒られることがなくなっていた。後に僕は何十人ものディーラーを育てたが、目上に対する礼儀や作法、銀行員あるいは社会人としての常識は絶対逸脱しないこと、ルールを曲げてまで儲ける必要のないことなど、基本は必ず厳しく教えたのは、あの頃の坂本イズムが僕の為替の原点になっているからである。

しかし、外国部に入って1年半目に坂本さんが丸の内支店に転勤してしまった。あれだけ業績をあげた花形チーフディーラーが書類にハンコを押したりしているのを見たらすごく寂しくなり、自分もそうなるのだろうな、それに自分みたいな生意気な若いのが来たら、御すことができるのかなと思った。かつて邦銀の場合、ディーラーの職業は銀行内で偉くなっていくための一つのステップでしかなく、生涯ディーラーでやっていくという意識を持った人は多くはなかった。また、どんなに優秀なディーラーであっても、その報酬は一般行員と大差はなかった。外銀の場合は最初からディーラーとして雇用されることがほとんどで、報酬もパフォーマンス次第だ。


■外銀に飛び込んで行く


その頃、外国為替に特化して大変活発にディーリングを行っていた、米国のアメリカンエキスプレス銀行のチーフディーラーのマイク・ジェイムスという男と非常に仲良くなり、ヘッドハンティングされていたが、坂本さんのことがきっかけでそのオファーを受ける決心をした。打てば響くという仕事が僕にとっては天性のようで、第一純粋に面白い。続けるのであれば外銀に飛び込んで行ってプロフェッショナルディーラーになるしかないと思った。その頃、日本の銀行から外銀に移った人は誰もいなくて、おそらく僕が第1号だったと思う。横浜銀行の初任給が月給3万8,000円だったのに対してアメリカンエキスプレスは年俸400万円を提示された。その後、オファーを受けて外銀を何度か転職するが、いつも金銭的な理由よりも、違う職場で違う立場で為替をやってみたいという気持ちの方が断然強かった。

74年27歳の時にアメリカンエキスプレスに入社した。最初はシニアディーラーだったが、マイク・ジェイムスが辞めたため、僕がチーフディーラーになり8人のチームを管轄することになった。外銀では個々のディーラーとしてのパフォーマンスが重要視されるとはいえ、一匹狼よりもチームとしての協調性が重要であるし、そうでないと長続きしない。


アメリカンエキスプレスでは、毎日電話やテレックスで、ロンドンやニューヨークとグローバルにやりとりをして、それまでは日本のマーケット、日本のお客さん、日本のカウンターパーティーしか見ていなかったのが、スベンスカ・ハンデルスバンケンとか聞いたことのない銀行と取引する。彼らにぼこぼこにやられて、ああ、これがディーリングだ、今までは本当にほんの一部しか我々は見てなかったのだ、ディーラーってなんて面白いのだろうと改めて思った。78年にモルガン銀行に移った時に、初めてニューヨークに行きディーリングルームを見て本当に驚いた。とにかくディーリングの規模が全然違っていて、当時の僕の何十倍ものポジションを張っていながら、皆普通の顔をして取引しているのだ。

モルガンの頃に、興銀の中山恒博さんや岡野学さんに会った。その頃興銀はまだ実需取引しかしてなかったが、我々と交流し出して、彼らはすごくスマートな人たちばかりで受け皿が大きいから、あっという間に本当にプロフェッショナルなディーリングをやるようになってしまった。眠っていた虎が本当の虎になってしまったのだ。中山さんとはお互いに切磋琢磨して、78年から90年まで12年間一番仲が良かった。チャーリー中山さん、堀内昭利さん、大倉孝さん、千葉公一さんなど、様々な触発される人達に出会ったのもこの頃のことだ。

銀行の元ディーラーの結束が非常に堅いのは、皆苦労して泣きの涙で歯を食いしばって頑張ったことをお互いに記憶しているからで、中でも85年のプラザ合意の時に苦労した仲間たち、その時の日銀の為替課長、ほとんどの邦銀の課長とは今でも『マーシャル会』として続いている。あんたにやられた、などと言い合って、儲かったという自慢をする人は誰一人いない。負け戦の話しかしないほど、為替取引で勝つのは難しいということだ。生きながらえたのは損の中身を薄くしているからこそ出来たことなのだ。

(後編に続く)

*2009年6月18日の取材に基づいて取材者が記事を構成
(取材/構成:香澄ケイト)

【前編】邦銀から外銀への第一号
【後編】ディーラー冥利に尽きる





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プロフィール

香澄ケイト

Kate Kasumi

外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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