「我がDNAはディーラーなり」 ― 中山恒博 氏 [前編]
■ボーディングスクールに放り込まれる
これからは英語の時代になると考えていた親父の計らいで、10歳でイギリスのボーディングスクールに入れられた。“なんで自分だけこんなに苦労するのか”オステンドの船着場で両親に見送られ一人ドーバー海峡を渡る。ボーディングスクールのある片田舎サセックスまでロンドンを経由して2日がかりでたどり着く。休暇が明けるとブリュッセル赴任中の両親と別れて寄宿舎に帰らねばならず辛かった。長じれば、親父の目論みも分かり大変貴重な経験をさせてもらい感謝しているが、その時は本当に放り込まれたと感じた。
ボーディングスクールは映画『ハリー・ポッター』の世界が一番近い。池田潔さんの著書『自由と規律』に書かれているように、強烈なディシプリン(規律)と一方では個人の力を発揮させるという明確な思想を持って成り立ち、厳しい教育が施される。ルールに背いたものには容赦がない。
ある時教室で、僕の後ろで同級生が騒いでいた。先生が僕だと思って「静かにしろ」と睨んだので、思わず「私じゃありません。後ろの人です」と言ったら、しばらくの間仲が良かった友人達ですら口をきいてくれなかった。「告げ口」をする人間は人の風上にも置けない卑劣な奴と思われる。義を重んじることや人を貶めないことは子供の社会でも徹底していた。その時の強烈なインパクトは、大人になっても、絶対に嘘はつかない、人の悪口は言わない、として刻み込まれている。
その代わり、学業で優秀な成績を収めたりスポーツで勝つと高く評価された。スポーツは、冬はラグビー夏はクリケット、そして春秋がサッカーと決まっている。選択性ではなく全員が全競技に参加する。僕はサッカーもクリケットもファーストイレブンに入れてもらったので楽しくやっていたが、スポーツは皆一緒に手をつないでやるのではなく、競争によって切磋琢磨させるという教育理念のもとで、全てにおいて競争をさせられた。
13歳の時に帰国したが、昔の日本は鷹揚だったのか、皆で戦後の瓦礫の中から立ち上がってやるという息吹の方が強かったせいなのか、特にいじめられた記憶はない。中学では友達も多くでき楽しく過ごしていたが、高校受験にあたって、帰国したばかりで音楽、図画工作等の付随科目がチンプンカンプン、なんとか主要4科目の入試で慶応に入学した。真面目に学校に行き、友達と遊んだり運動したりしていたが特にこれといった信念などはなく、真剣に何になりたいとか何かをしようとか奮い立ったなんてことはほとんどなかった。大学時代は学生運動が活発な頃で、人並みにマルクスを読み、学生運動家と議論もしたりしたがさほど深入りせずに日常の楽しさを謳歌していたときだった。
二年生が終わってそういう生活に飽き足らなくなり、一年間、英国のシェフィールド大学に留学し、政治学を専攻した。振り返ってみれば、このときだけはよく勉強したと思う。
■変動相場制の激動の最中に
当時日本経済はまさに高度成長を謳歌している時代で、就職は今のように厳しい状況ではなく、有効求人倍率も高かった。最初は特に銀行に行きたかったわけでなく、ある程度海外に携わる仕事の方が自分の経験が役立つと考えていた。もっとも当時はどの会社も日本の高度経済成長に寄与している会社だったから、どこにいても自分がやる仕事はあるだろうと構えていた。会社訪問をさせてもらって雰囲気や人が良ければ一生懸命になれるし、自分にとって長続きすると考えていたので何よりもそちらを重視した。
たまたま親父の知り合いが興銀(旧日本興業銀行)という面白い銀行があるぞと紹介してくれた。訪問するとなかなか雰囲気も人も魅力的で面白そうだった。この選択はまさに正しく、興銀から「みずほ」に至る36年間を振り返って、この銀行に就職しない方がよかったと後悔したことは今日まで一回足りともない。
その36年の内、為替ディーラーをやっていたのは3分の一だけだったが、非常に凝縮された濃い12年間だった。退職する時に「自分の基本的なDNAはディーラーだと思っています。やはり自分はディーラーであって、その次に銀行員であると思ってやってきました。それくらいディーリングが好きだったし、非常に魅力的な仕事だった」と皆の前で挨拶した。その後、他の仕事をする場合にもディーラーの経験が大きく影響したと思っている。
1971年4月に入行してから12月までの間は、当時まだ興銀の中ではマイナーだった外国部門の中にある外国為替の輸出の事務担当に配属された。その年の夏ニクソンショックを受けドルは360円から年末のスミソニアン合意で308円に切り上げられた。その後変動相場へ移行しつつある為替市場の激動の最中に、同じ部署内のディーリングを行うわずか4人足らずの外国部資金課に異動になった。それが、為替ディーラーとしてのスタートだった。
資金課ではディーリングというよりもほとんど小間使い。何も分かっていない若造1年生だった僕は、日銀の外国局為替課資金掛の担当者に、電話の向こうで、よくしかられたりしながら忙しくやっていた。ロイターもティッカーない時代で、昔のアメリカのテレビなどに出てくるような黒い電話が4つ置いてあって、付いているハンドルを回すと短資業者につながる。そこに電話して、今いくら?と訊くようなことばかりやっていた。その当時情報はオープンで、今20の買いで30の売りだ、20の買いはどこ?東京銀行さんと三菱さんは買いですよ。売りはどこ?どことどこ。なんかそっちの方が優勢だな、とかおおらかにやっていた。
■組織を超えたつながり
ペーペーで入ったが、上司や先輩に恵まれていた。そして外部でも色々な人と知り合った。76年頃に、既に外為市場に名の売れていた坂本軍治さんや酒匂隆雄さんとも知り合っている。為替ディーラーというのは、お互いに直接の利害関係がないから組織を超えて仲良くなりやすい。顧客情報や今日何をするといったようなことはお互いにリークしないという当然の不文律があるが、為替がこうなりそうだとかこういうことが起きているなど自分の意見を言うのは完全に自由だ。自分が分からない時に、人にこれはどうなっているだろうと電話する。ロンドンの誰々に電話して、ニューヨークの誰々に電話してなどして情報を取りあう。これはもう、一つのグローバルなマフィアみたいなもので、そういったことが非常に大事な世界だ。
当時の知り合いとの交流は今でも続いていてよく飲み会をやっている。その一つのマーシャル会は、85年プラザ合意の時に為替課長だった人間の集まりで、2ヶ月に一度やっていて120回になるからもう20年以上続いていることになる。昔の東銀、三和、長銀、富士、三菱信託の人達、日銀の人、外資系では酒匂さんといったメンバーで、昔はそれこそ丁々発止と為替市場や世界経済の話をしたものだが、最近は孫の話とか老人病の問題にまで言及している。商社さんや自動車メーカーなどの為替仲間との集まりも長く続いている。こういう付き合いをしているとやはり「Once a Dealer, always a Dealer」という言葉が我々には非常に突き刺さる。為替でなかったら組織を超えてフランクに話すこんな関係はなかなかできない。
この頃は、為替はこれから銀行でキャリアを作る一つのステップなんだろう程度にしか思っていなくて、ましてこういうことが一つの職業になるなどとは想像もつかなかった。我々はプロではなく社会人野球をやっていた。社会人野球部としてだったらチームとして続いていくし、僕らにはそれができるという自負心や可能性も有ったが、自分達がプロになるなどとは思っていなかった。後に為替課長になった時もそうだが常に頭を占めていたのは、僕自身が一人のディーラーとして成功するというよりも、このディーリングチームをどうやって社会人野球としてマネージして、プロフェッショナルの集団である外資系の銀行に伍して戦うかだった。そしてその答えは後に触れるが「チームワーク」だった。
■本格的な為替のステージが始まった
為替の経験は2年間で一旦幕を閉じてしまう。73年、インシアード(INSEAD:欧州経営大学院)に留学することになったからだ。為替をやっている時からとにかく留学はしたいと思っていた。インシアードはフランスのフォンテンブローにあるが、フランス語のビジネススクールではなく、ワーキングランゲージは8割がた英語でインターナショナル。生徒は一つの国民が3分の一を占めてはいけないことになっている。授業はケーススタディ中心だが、それとは別にワーキンググループを作って共同で宿題をやるような仕組みもあった。インシアードらしいのは、6人のメンバーは全員国籍が違っていて、英語で話していると、急にフランス人が興奮してフランス語で話したりして、それこそ人種の坩堝みたいで面白かった。
留学中は為替のことはほとんど考えずに過ごしていたが、帰国1週間前に人事部から「あなたには外国部資金課に帰って来てもらいます」と電話をもらった。思わず、「エッ?!僕そこから来たんですけど」と絶句した。その当時の興銀は留学して帰ってくると大抵審査部や営業部に行くことになっていて、自分もなんとなくそう思っていたからだ。
傷心の僕に、当時外国部部長の黒澤さん(後の頭取)が「お前に為替をやってもらった時はよくやったと俺は評価している。だからここでもう一回やって、いずれニューヨークでやってもらおうと思っている」と言ってくれたが、「高く買っていただくのは有り難いけど、私はまだ銀行員の3年生、野球で言えば、お前は守備が上手いから守備をやれと言われているみたいなもので、バッティングやランニングしたらもっと上手いかもしれない」と生意気を言ったら、100人もいる部屋に響き渡る声で「馬鹿者!」と怒鳴られた。続いて飛んで来た言葉は「いいか、この銀行にはジェネラリストなんて掃いて捨てるほどいる。これからはスペシャリストの時代だ。為替のようにこれから大事な仕事に集中できることがどれだけ幸せなのか分からないのか!」だった。この黒澤さんの先見の明のお陰で今日の自分があると僕は思っている。
実際1年半後の77年、29歳の時に為替・資金担当課長役でニューヨークに赴任した。為替の第二フェーズの始まりだった。日本人の男性は二人だけで後は現地の人の併せて10名くらいの小さな所帯だった。ちょうどその時カーターショックがあった。僕は、後にプラザ合意を含め色々なショックを経験しているが、ショックの年には為替は何十円も動いたことを考えると、非常についている為替人生だったと思っている。
(後編に続く)
*2009年5月28日の取材に基づいて取材者が記事を構成
(取材/構成:香澄ケイト)
【前編】人に恵まれ相場に恵まれ
【後編】相場は緻密たるべし
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