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チャーリー中山氏との出会い(その3)

さて、前回号の通り、チャーリー中山氏との出会いがあって以降、私は様々なトレード経験を積む過程で、失敗や苦労を重ねながらも「ディーラー」を一生の仕事としてやっていこうという決意を固めていったのでした。

しかし、同時に、外銀で果たして自分のような人間が務まるのだろうかという心配、不安が常に頭の中をよぎっていました。そんな中で、私は、当時、中山氏の部下でもあった渋沢稔氏との運命的な出会いがあったのです。敢えて、この「チャーリー中山氏との出会い」をテーマとしたブログの中で渋沢氏の名前を挙げることにはかなりの抵抗があったのですが、敢えて、触れさせて頂きたいと思います。

と言うのも、渋沢氏の存在は、私の人生にとってまさに運命的なものであったと断言出来るからです。恐らく、渋沢氏と出会っていなかったら私はそのまま邦銀にとどまっていたであろうし、その後の人生は全く異なったものとなっていたと確信出来るのです。

渋沢稔氏との接点は、最初は、中山氏の紹介から始まりました。元々、日本興業銀行(現:みずほコーポレート銀行)の出身で、当時、ファーストインターステート銀行東京支店にて「日本部長」と言う肩書きを持ったチーフディーラーでした。中山氏がアジアを統括されていた一方で日本は渋沢氏が仕切っていたわけです。そして、既に、東京市場では名の通った押しも押されもせぬ凄腕ディーラーだったのです。

聞くところ、東大野球部時代に、あの江川卓(当時、法政大学)投手からホームランを打ったこと、しかもその直後の打席で江川投手が必死で投げてきたストレートをセンター前に弾き返したという、聞くとバリバリの体育会系、話すと滅茶苦茶人間味溢れる良い兄貴のような方でした。

というわけで、私がニューヨークに勤務していた5年半の最後の1年は、まさに、中山氏と渋沢稔氏に鍛え上げられた1年でもあったと言っても過言ではありません。もちろん、私の直属のボスは当時の三和銀行ニューヨーク支店のチーフディーラーであったのですが、そのボスは先に日本に帰国し、後任のチーフディーラーは、為替ディーリングに関しては、私に一切言葉を出さなかったのです。

お陰で自由にトレード出来たのは事実ですが、師として仰いだのは、中山氏と渋沢氏のお二人となったわけです。中山氏に関しては、前回、前々回に書かせて頂いた通りですが、渋沢氏は、実に優しく、頼りがいのある、私の兄貴のような存在となっていったのです。

渋沢氏のトレードは、中山氏とはかなり異なったスタイルでした。しかし、上げておられた利益は、莫大なものでした。その渋沢氏が頻繁に私に電話してこられたのです。マーケットに関しての状況、雰囲気を情報交換した後、最後に、私に、トレードしたい通貨ペアと金額、売買の方向だけを告げられるだけで電話を切られたのです。

大きな金額のトレードであったので、全部の注文をさばくのに時間が掛りました。しかも、トレードの度毎に、渋沢氏は「柾木さんの良いように判断して買って(もしくは売って)おいて下さい。結果はいつものようにテレックスに入れておいて下さい。」とだけ仰ったのです。

中山氏の場合は、いくらの価格で何本と言う風に細かく希望を仰ったのですが、渋沢氏は、まったく価格は私に任せきりでしかも最終結果はただテレックスにて送るように依頼されただけでした。

私は、何としても渋沢氏が満足して頂けるベストのレートで売買しようとまさに自分の全精力を振り絞って取引に挑みました。その過程では、自分のディーラーとしての力量を問われているのだと自分に言い聞かせながら、取り組んでいたのを覚えています。

翌日になって、渋沢氏が、「柾木さん、何であんなに良いレートで出来たのですか?大丈夫だったのですか?無理しないで下さいね。」とお礼の電話を頂戴することに喜びを覚えていた私は、まるで中山氏や渋沢氏の為にニューヨークに駐在しているようなものでした。このような感じで、私のニューヨーク駐在の最後の1年はあっという間に過ぎていったのです。

ところで、渋沢氏と初めて面と向かってお会いしたのは、渋沢氏がニューヨークに出張されてきた時のことでした。私は、当時はお酒に弱い(今も強くはないですが)にも関わらず、渋沢氏に会えた喜びでそれまで飲んだことのなかった焼酎のレモン割りを数杯飲み上げてしまいました。さすがに、ふらふらとなった私に対して渋沢氏は嫌な顔一つされず、ディーラー談義に花を咲かせたのを昨日のように思い出します。

さて、その後、ほどなくして東京本部に戻った私は、当然の如く、中山氏と渋沢氏から猛烈な銀行移籍の勧誘のラブコールを受けるに至ります。しばらくして中山氏は他の銀行に移籍され、渋沢氏もスイス系の銀行に移られました。それもあって、結果的には、私はシティバンクに移籍することになったのですが、その決断の過程を振り返ってみて、渋沢氏がいらっしゃらなかったら、絶対に邦銀を辞めて外銀には移らなかったと思えるのです。何せ、自分の弟のように親身になってとことん相談に乗って下さったからです。

それにしても、その後、中山氏や渋沢氏と長いお付き合いをさせて頂いている自分は本当に幸せな人間だと思います。ディーラーとしての考え方やスタイルを教えて頂いただけでなく、人間味に溢れ、本当の優しさを教えてくれるお二人からはあまりにも多くのことを学ばせて頂きました。この場を借りて、本当に心から感謝申し上げたいと思う次第です。


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プロフィール

柾木利彦(マーフィー)

Toshihiko Masaki

インテリジェンス・テクノロジーズ代表

1980年、大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)を卒業後、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。
ニューヨーク支店、東京本部の ドル円チーフディーラーを経て、1992年米銀大手の『シティバンク』や欧州系大手の『オランダ銀行』東京支店などで外国為替部長として外銀最大級のトレーディングチームを率いて活躍、現在に到る。その間、「東京市場委員会」での副議長や「東京フォレックスクラブ」委員などを歴任。卓越した市場関連知識でもって、テレビ、ラジオ、新聞などで数多くの情報発信を行い、東京外国為替市場の発展に貢献。自身、過去24年に及ぶトレード経験に基づき、独自のチャート分析 (「スパンモデル」「スーパーボリンジャー」等)を確立。
個人投資家に向けて最強の投資法を伝授することをライフワークとして、現在も精力的に取り組んでいる。

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