ディーラーの世界(7)
ところで、私のいた邦銀はディーリングに対する理解があり、やる気のあるディーラーや収益力のあるディーラーには次々と仕事を与える風潮がありました。
ニューヨーク支店の場合で言うと、成績に応じてポジション枠が増えたり、損失限度額が増額されたりしたのです。特に驚いたことは、日本の銀行であるにも関わらず、上司よりも部下の方のポジション枠が大きくなるケースもあったことです。これにはさすがに戸惑いましたが、上司の方がとても素晴らしい方でしたので、少なくとも面と向かって嫌な風をされなくて本当に助かったと今更ながら思います。
そして、怖いチーフディーラー氏は部下である、その私の上司に対して、私に相場観を押し付けたりせず、自由勝手にディールをやるように「業務命令」を下したのです。何ともはや、恐ろしい世界に来たものだと痛感しました。如何に日本を代表する大銀行であっても、ここは、市場を相手にするディーリングルームです。社内での相場観など、何の役にも立ちません。上司であろうが、部下であろうが、稼いでなんぼ、の世界なのです。もちろん、節度ある職場規律はしっかりと守られており、ディーリング以外では明確に上司、部下の師弟関係は保たれていたことは言うまでもありません。
そのような、外資系でも厳し過ぎると思われる環境・条件の中で、私のディーラーとしての基礎は叩き上げられていったのです。前にも書きましたように、「プラザ合意」があったところで、ニューヨーク市場はドル売り円買い一辺倒の市場ではなく、「プラザ合意」のあった1985年の翌年1986年1年間を通しても、ニューヨーク市場オープン(朝8時半)からクローズ(夕方5時)にかけてドルが上昇した日が45%、下落した日が55%という結果でした。毎日、一体全体上がるのか、下がるのか、自分の相場観(あくまで直感)と竹やり武器である○×チャートだけが頼りだったのです。
やがて、「ファンダメンタルズ」なるものを勉強しなければ「格好悪い」と感じ始めた私は、手当たり次第に経済指標の勉強や、外資系が作成している英文レポートを読み出しました。FRBの金融政策に関する書籍を購入したりもしました。それでも、得た知識が日常のディールに役立ったことは残念ながら記憶になく、むしろ余計なことを考える習慣がついた為に、経済指標発表後の反応が遅れることがあったぐらいです。
私の場合、幸いなことに、米系銀行に多くの友人を作ることが出来ました。それこそ、天下のシティバンクやBOA、J.P.Morgan等のドル円チーフディーラーやドルマルクチーフディーラーとも仲良しになれたのです。性格が根っからのお調子者であった為、ボスに「お友達の外資系の連中は何か言っている?」なんて質問されると、嬉しくなって、怖いもの知らずにあちこち電話してはマーケット情報を聞きにいったのです。彼らも、最初はこちらをそれほど相手にしてくれなかったものの、次第にインターバンク市場にてコンスタントに互いにプライスを呼び合ったりしていると、彼ら自身の方から興味を持ってくれたらしく、夕刻、市場が引けてから一緒に飲みに行くほどの関係に発展していったのです。
何といっても、こちらは日本人であり、G5以降、円は特に投機の対象になっており、日本の事情をちょっと話すだけで、充分興味をもって付き合ってくれたものです。そして、たまに、ディーラーのパーティーがあると、出来るだけ参加するようにしました。一部の日本の銀行もインターバンク市場に参加してはいましたが、私の在籍していた邦銀ニューヨーク支店はニューヨーク市場にて益々存在感を高めていったのです。
■無料メールマガシン「マーフィーの最強FX投資法を伝授」を配信登録された方にレポートを差し上げています。
無料メルマガ
現在、上記の無料メルマガを登録すると、私が長年かけて考案した「スパンモデル」・「スーパーボリンジャー」の基本を解説したレポートを無料ダウンロードして頂くことが出来ます。
どうぞ、ご活用下さい。