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株式会社FXトレード・フィナンシャル 代表取締役社長 鶴泰治氏(第3回)
2012年05月09日(水)


■相場には「信義誠実」という原則もある
4年間本部に勤務した後、1992年にロサンジェルス支店ディーリングルームにチーフディーラーとして赴任しました。初めての外国はすべてが刺激的だったので、吸収することはたくさんあり、しかも非常に楽しいものでした。アメリカで為替市場といえば、ニューヨークが主戦場と思われがちですが、ロサンジェルスも活況でした。なぜかというと、92年当時は、アメリカの中心連銀は、ニューヨーク連銀ではなくサンフランシスコ連銀(カリフォルニア州)だったからです。FRBや FEDとは、当時は、サンフランシスコ連銀を指していたのです。だから、カリフォルニア州最大の金融市場であるロス市場は米銀だけでなく、大手外銀も邦銀(大手20行程度)も皆ディーリングルームを配置して、ディーリングをやりまくっていました。
96年にニューヨーク支店に転勤し、ディーリングルームシニアマネージャーに昇格しました。ニューヨークのポジションはより大きかったので、収益目標も高くて、責任は重大でした。ニューヨーク支店の日本人ディーラー6人ほどで年間200億円程度の目標があり、一人30億円ほどの年間収益を計上していました。
そのために、債券等金利商品やそのデリバティブなどいろいろなものでポジションを張りましたが、オフバランスである金利スワップで儲けるケースがほとんどでした。為替ではそこまで儲けられません。仮に、儲けることは可能でも、デリバティブ商品と比較して現物取引である為替はリスクもものすごく大きくなってしまうのです。目標も大きくそれだけ個人ポジションも大きかったために、精神的・肉体的には非常につらい時期でもありました。

ロスでもニューヨークでも、大きく儲かったら「ヨッシャー!」と叫んでいました。まさしく『トップガン』の世界です。収益をあげたときの達成感、ガッツポーズや声の張り上げ方は、お金を集めたり融資したりする銀行の本業ではなかなか得られないものです。
90年代は、ソ連の崩壊や湾岸戦争があったりして、相場はかなりボラタイルな動きをしていましたから、儲けるチャンスも多くありました。ニューヨークから帰ってきた98年にはLTCM事件がありました。このときは2日で20円ぐらい動きました。帰国したら、為替課長として、総勢30〜40名の為替グループを管轄することになりました。太田順也も香港赴任から事前に帰国しており、その中のインターバンクチーフディーラーでした。
今でもよく二人で語り草にするのが、2001年の9.11のときのことです。夜、ディーリングルームに呼び戻されて私が、「太田、これはチャンスだぞ。ドル売りまくろうぜ」と言ったら、太田からは「やめましょう」と返ってきました。それで売らないで様子を見ることにしました。FEDは、ドルを売らないで欲しいと要請していましたが、実際にドルはどんどん売られていきました。後から、なぜもっとポジションを持たなかったか、議論になりましたが、相場には「信義誠実の原則」もあるのです。
2005年からディーリングルームディレクターとして2008年3月まで菱信の英国証券現法(ロンドン)に勤務して、帰国してからほぼ半年で菱信を辞めました。ロンドンにいるときに第二の人生を考え始めていました。そのまま銀行にいて50歳を超えれば大概出向になります。果たして、自分の人生それでいいのだろうか、悩んでいたところに、20年来のイギリス人の友達から、FX会社を興すから社長になってくれと頼まれたのです。
■「FXトレード・フィナンシャル」設立の経緯
FX?それまで私は、FXのことを全然知りませんでしたから、彼からFXの話を聞いて大変驚きました。私がいない間に、日本の個人投資家のFXマーケットが活況になっていたとは!
日本ではあくまでも私が知っているのはプロの為替マーケット。個人というのは初めてです。でも、おもしろそうだと思いました。FXに限らず証拠金取引は、金融の中でも最も魅力的で、成長性があるようにも見えたからです。実際にロンドン在住時は個人口座でFXをやっていましたのでFXの商品性だけは理解していました。会社を立ち上げるとしたら最低でも取締役3人は必要と考え、20年来、私の側近である太田順也に声をかけて、もうひとり、証券会社出身で、旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)フランクフルト支店に勤務し、当時日本に逆単身赴任していた慶應のクラスメートだった小林彰彦(当社取締役)に声を掛けました。
私と太田は、フロントの人間ですが、会社をやるには、経営や管理つまりバックオフィス的な業務がどうしても必要になってきますし、今後われわれがビジネスを推進・拡大するにあたって、FX以外の証拠金取引であるCFDやM&Aを通じた国内外への展開・規模拡大も視野に入れてやっていこうと考えていました。その点、証券業務を長くやってきた小林は欠かせません。私と太田も、為替や金利のディーラーだけやってきたのではなくて、年金運用部でファンドマネージャーも経験していますから、債券・株式運用の経験もあります。しかし、将来を見据えて包括的な証券業務かつ海外経験豊富な証券スペシャリストが必要と考えたのです。

会社創世期から、われわれの経営方針は、FXというよりは、日本一収益率の高い証拠金取引会社でした。会社設立の理由はほかにもありました。実際に、為替がよくわかってない人たちがFX会社を立ち上げてやっている。それゆえに、顧客にちゃんとした啓蒙活動をしてきていないということが、社会現象として起こっていました。
せっかく菱信でディーラーとして育ててもらってきたのですから、この経験を社会に還元できたらと思いました。当社のような金融のプロが立ち上げた会社はほかにはありません。従って、東京外為市場の健全化や育成を推進するというのが、われわれの経営理念でもあります。今までプロでやってきたことに対して、ちゃんとマーケットをつくっていき、かつ、個人投資家の方々への啓蒙活動を推進していきたいと思っています。
しかしながら、当社の啓蒙活動はまだ十分とは言えません。現在まで、会社の確立および規制との戦いによる商品化および商品ラインナップの増加に軸足をおいてきたためです。レバレッジ規制が施行されて、今まで大きく相場を張れた人もそうできなくなってしまったことや取引最低単価が上昇したことによりFXが身近な商品ではなくなったことが最も影響が大きかったので、そういったお客様のニーズに幅広く応えていくために、自動売買ツール、バイナリ―オプションやメタトレーダー4(MT4)などFX関連商品で考えられるだけの多彩な商品のラインナップに力を注いできました。
(第4回に続く)
*2012年2月29日の取材に基づいて記事を構成
(取材/文:香澄ケイト)
(第1回)独立自尊の精神は今でも
(第2回)映画『トップガン』でディーラーの道へ
(第3回)為替ディーラーの経験を社会に還元
(第4回)分散投資としてのFXを広めたい

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