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ディーラー烈士伝

「“冷静”と“狂気”で相場に勝つ」 ―田代岳 氏 [前編]

2012年01月12日(木)

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■スキーにハマり留年

 渋谷区の中心部で生まれ育ったと言うと、人にうらやましがられるが、親父が勤めていた生命保険会社の社宅がたまたまそこにあっただけのこと。昭和30年代は、現在のシャレた雰囲気とは程遠い街で、渋谷駅付近にはまだ戦争を引きずっている光景があちこちに見られた。

しかし、渋谷の外国人居住区だけはまったくの別世界。40年前、1ドル=360円時代の日本とアメリカの格差は実に大きくて、友達と冒険しに行って、プールや緑の芝生がある豪華な家やマンションを見たときは、激しいカルチャーショックと共にアメリカの豊かさがうらやましかった。(後にシティ・バンク〔以下、シティ〕に入って、外国人の同僚の家に遊びに行ったときにも、似たような心境に陥った)

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小学校から都立高校までひたすらサッカー少年だった。この高校は、東京都でベスト8に必ず入るほど強く、優れた選手が大勢いて競争が厳しかったせいで、2年生で挫折してしまった。サッカーをやめてしまうと、それまでの揺り動かしが一気に来て、パチンコや麻雀をやったり、喫茶店で女の子とダベったりと、軟派化してしまった。

高校は、「自主・自由・自律」という校風の通り、制服はないし、校則も厳しくなくて、とても楽しかったが、その分、学力が急低下してしまい、受験間近になってからようやく勉強するような始末で、青山学院大学(以下、青学)の経営学部に合格したときは、ホッとした。

大学卒業近になっても、将来の展望が湧かなかった。自分が本当にやりたいことがなんなのか、FXで活動をするようになるまで、ずっと模索していた中で、ひとつだけ確実に言えるのは、現在まで、幸運にも人との巡り合せや運の力によって「為替」を仕事にさせてもらっていることだ。

いったん大学に入ってしまえば、勉強は二の次にしてスキー三昧だった。スキーの魅力は、人間の日常生活ではありえない「浮く感覚」を味わえること。毎年2月から4月までずっと志賀高原などの山にこもりっきりで、インストラクターのアルバイトをしていた。

ちょうど日本が豊かになっていく時代、楽しいことはいくらでもあったけれど、家はごく普通のサラリーマン家庭で、余裕があるわけではなかったので、小遣いはバイトをして稼がなくてはならず、趣味と実益の両方を兼ね備えているこの仕事はまさにうってつけだった。ただし、あまりにもスキーにハマり過ぎてしまった結果、留年というよけいなおまけまでついてしまったのは、想定外だった。

■為替ブローカーからシティのディーラーへ

 そのせいで、就職は大苦戦。こうなった以上、到底大企業には就職できないと、思い悩んでいたある日、偶然にも、証券会社に就職した同級生に出くわした。彼は、外国為替というものがすごく伸びていて、そういう業界があるよと言う。外国為替!? 直感的におもしろうそうだと思った。もし、この同級生にばったり遭遇しなければ、為替の道に入ることはなかっただろう。為替ブローカーの「コバヤシ」に就職することになったのは、このような理由からだった。

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為替ブローカーの仕事は、英語が勉強できるし、とてもインターナショナルだと思っていたので最初は楽しかったが、やがて仲介をやっているだけのもの足りなさを覚えるようになった。その頃、ブローカーは儲かっていたから、収入の面においてはなんら不満はなかったが、僕は、早くここから逃げ出したかった。コバヤシは為替ブローカーの中でも、末端に位置するような弱小チームだったから、この会社で終わるわけにはいくまいと思ったのだ。

ブローカーでなくディーラーになりたいという気持ちが芽生え始めていた矢先、幸運にも僕の担当していたシティの東京支店から誘われた。外銀は大量に人が動く場合がしばしあり、たまたまそのとき欠員があっただけで、別に僕が優秀だからというわけではなく、頭は悪そうでも根性はありそうだと思われて引っ張ってくれたようだった。

僕を採用してくれた吉田稔さん(この人は伝説的)、西原宏一さん、高松力さん、水越さんなどの優れたディーラーに刺激され,最初の数年は非常に貪欲になって勉強した。コバヤシはレートがなかったから、シティでは、世の中にこんなにレートがあるのか!と驚いた。これだけレートがあればいくらでもトレードできる。うれしくてたまらなかった。

ジュニア時代は、できるだけ早くシニアに昇格して、ボードディーラーになることが目標だ。ボードディーラーは、お客や自分たちの支店に対してクオート(建値)をし、ダイレクトディール(銀行間の直接取引:以下、DD)も行う。

ボードディーラーとしての仕事を朝7時半くらいから夕方までやって、それ以降は、取引の中心が最も大きく動くロンドンに移ると、自分のポジションでトレードするプロップディーラーになる。

あの頃のDDの打ち合いは、1対1のタイマン勝負みたいなもので、ディーラーは誰でもそういった気概を持って臨んでいた。張り詰めた雰囲気の中で、皆知り合い同士が、歯を食いしばってレートをクオートしていた、今とはまったく違うメンタリティの、意地と意地の戦いみたいなものがあった。

今では、電子取引になってしまったから相手の顔が見えない。相手が見えるからこそ、こいつに打たれたからこいつには負けないみたいなのがあったし、相手の好き嫌いもあったから、ディールはもっと人間臭かった。

■マルク円でアジアナンバーワンを目指す

 特に、東京では、円のボードが最も花形なので、円ディーラーになることがひとつの目標になる。自分は、最初はドル円のナイトデスクを担当させられた。シティはグローバルな24時間体制で、東京タイム、ニューヨークタイム、ロンドンタイムと8時間ずつ区切ってディーリングしていた。僕は、よく動くロンドン時間が好きだったので、この時間帯で、長い期間トレードさせてもらった。

吉田さんの下で西原さんがチーフディーラーをやっていた時代が、チームが最も一体感があって、理想的な組織だったと思う。一般的なサラリーマンだと上司の決裁がいるが、シティでは、おうかがいをたてなくてもポジションの範囲内であればいくらでも自分の相場観に沿ってディーリングができたし、上司と逆のポジションを持つことも全然OKだった。
自分で決めて自分で行動し責任を持つような自己完結的な仕事を好み、人にとやかく言われるのが嫌な人間にとって、シティのディーリングルームは最適な職場だった。

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ドル円をやっていたときは、いつも東京銀行の玉に負かされていた。シティは、ドル円やドルマルクを50本でトレードするいわゆる“一部リーグ”にいたが、ドル円に関しては、邦銀が大玉を持っていて、圧倒的に強いので、彼らに打たれるとカバーするのに躍起になった。

ドル円から、シティグループ全体がアジアで積極的にトレードしていたマルク円に移ることになり、ドル円とは違った動きのおもしろさに魅了された。マルク円で強い邦銀は、しいていうならばIBJとDKBぐらいだったので、ドル円ではナンバーワンになれなくても、マルク円だったらナンバーワンになれるかもしれないと思って、担当した2年間は、一番張り詰めてやっていた。

(中編に続く)

*2011年11月07日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)

【前編】為替ブローカーから為替ディーラーへ
【中編】「恐怖」と「貪欲」をコントロールする
【後編】スマートな投資家作りに注力

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プロフィール

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TheFxACE(ザ・フェイス)企画チーム / TheFxACE

為替ディーラーのご経歴を持つ方々に、ご自身の生き様や相場に対する考え方などをお伺いしていきます。

[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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