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ディーラー烈士伝

「投資のダイナミズムに魅せられて」 ―向坊洋之 氏 [前編]

2011年07月13日(水)

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■海外と語学の素地は幼少から

 父の仕事の関係で、生まれてすぐにキューバに暮らし、キューバ革命の進行で家族はトリニダード・トバコに移り住んだ。父は水産関係の仕事で、理科系の人間であった。“マグロの脂の乗り”の計測器などの製作に携わりながら、日米会話学院の同時通訳の第1期生として英語を学び、独学でスペイン語を勉強した語学オタクでもあった。南太平洋やカリブ海に赴任したのは、語学の腕前が買われたからだった。

キューバはスペイン語、イギリス領だったトリニダード・トバコは英語が公用語だった。こういった環境に囲まれていたから、おのずと海外や語学の素地が出来上がってしまったようだ。現在は、英語のほかに、中国語が喋れるかどうかがキャリアを決めるといっても過言ではない。中国語は、香港に来る前から足掛け5年間ほど習っているので、何とか簡単な会話はこなせるようになったが、やはり現地で使わないと伸びない。今年中にプロジェクト進行中の重慶市にフルタイムで赴任する予定だ。

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小学校2年の時に帰国し、小学校・中学校は公立、高校で桐朋学園に進み、大学は慶應の経済に入学した。父はすでに独立して天然冷凍えびの輸入会社を経営していたので、貿易の仕事を覚えて父親の仕事を継ぐ事になるだろうと漠然と考えていた。ずっと日本にいるという気持ちは毛頭なかった。卒業後、シティ・バンク(以下、シティ)に入ることになった。シティには、アメリカのビジネススクールへの留学制度があったのが魅力的であった。このときは、営業や貸付の経験を積むつもりであったが、どういう巡り合わせか、2年目で国際金融本部に配属された。

インターバンクは行内では動物園だと思われていた場所だった。当時チーフディーラーの小口幸伸さんの下に入ったが、板垣さん、藤友さん、高山さんが私が始めて見るディーラーだった。目の前で流れるニュースに反応するかのように、インターバンクのテレックスが鳴り出す、ブローカーが騒ぎ出す、客がプライスを聞いてくる、緊張の連続で、アドレナリンの上がる仕事である事を肌で感じた。ニューヨークの研修で、有名ディーラーのマーク・ロサスコ氏の近くに座らされて、あのおとなしい男が、真っ赤になって、電話を叩き壊すのを何度か見た。(私自身、電話は数回、ロイターは1回叩き壊したことはある。)

インターバンクのアシスタントディーラーとして始めて、1年ほどでポンドのクオートをやらされた。よくバンカーズのロシアや中東に玉をぶち込まれた。そうこうしている内に、念願どおり、留学する機会が訪れ、84年からシカゴに留学することになった。このころは金融デリバティブが流行り始めていて、シカゴ大学のビジネススクールでファイナンスと国際経済を専攻し、最後を除いて、全学期、DEAN`S LIST(ディーンズ・リスト、優等生名簿)に乗った。一番勉強したときでもあった。

■通貨オプションのパイオニア

 ビジネススクールを卒業して、シティのニューヨークとチューリッヒ支店の通貨オプションデスクで研修をして、東京支店の通貨オプションデスクに配属された。当時、シティでは通貨オプションの評価方法はめちゃくちゃで、ブックの管理も素人並みだったと記憶している。当時から、最新の金融工学を駆使して、ブックの管理をしていたのが、ゴールドマン・サックス(以下、GS)等の米系投資銀行だった。縁があって、GSで通貨オプションのグローバルブックのチームに入ることになった。勉強するなら最先端で、と考えていた。

東京市場でも、インベストメントバンク(投資銀行)が、通貨オプションに力を入れ始めていたが、当時は、日本人で英語が堪能でオプションができる人間が、自分以外にいなかったのだろう。それが、私が、東京市場における通貨オプション取引のパイオニア的な存在だと思われている由縁だと思う。二度ほど“デリバティブ・スーパー・スター” に選ばれたが、大したことはしていない。営業の一環として、会社が圧力を掛けたのだろう。

東京為替市場(キャッシュマーケット)のメインプレイヤーが大手米銀や邦銀などだったのに対し、通貨オプション市場は、最初はバンカメ、モルガンスタンレー、GS、ソックジェン、インドスエズなど米系銀行、投資銀行、一部仏系銀行が中心の数行でしのぎを削っていた。通貨オプションが、次第に通常の為替市場においても、価格形成や取引量に多大な影響を与えるようになっていくのにさほど時間は掛からなかった。

グローバルブックでの東京における自分の役割は、全体のポジションが持つリスクのヘッジやプライスのクォートだったが、その内に、クオンツを使って、派生商品の開発と取引、そしてそのリスク管理を始めた。それが始まりであり、私のところで、複雑な商品をプロ相手につくり始めたのが、どんどん広まって行った様に思う。

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マーケットが未成熟のときに、クロス円のボラティリティに着目してトレードすることも始めた。ドルが基軸通貨としての位置づけが高かった時代は、ドル対その他の通貨のボラティリティに対して、ドルを含まない通貨間の為替レート(クロス)のボラティリティが相対的に低かった。ところが、80年代後半から90年代へかけて、ドル離れが起きていき、ドルの方向に引きずられていた通貨の動きが、個々に動くようになった。

クロスのボラティリティは低いまま(マーケットは過小評価していた)だったので、クロス円のボラティリティを買うと同時に、ドル対その他通貨のボラティリティを売るトレードをずっと続けた。その後、次第にクロス円のボラティリティが上昇していったので、利益は莫大なものになった。私が通貨オプションを担当してから、東京市場におけるGSはクロスで恐れられていた。バニラの通貨オプションは、全盛期(80年代後半から90年代にかけて)を享受していた。

プラザ合意(85年)ブラックマンデー(87年)ベルリンの壁の崩壊(89年)イラクのクエート侵攻(90年)ソ連8月クーデター(91年)、9.11(2001年)、日本での榊原氏の介入、山崎氏の介入、ユーロ導入など、様々なイベントがバタバタとあり、確かに面白い時代にいたと思う。

■オプションの功罪

 オプションという手法が為替で急拡大した背景には、何よりもその決済のしやすさがあげられるのではないだろうか。為替は流動性の高さや24時間トレードされ、かつ翌々営業日には決済ができる。例えば、ミカンを商品にしたオプションを作ろうとしても、ミカンにはさまざまな種類がある。だが、通貨は、1ドルはどこでも1ドルだし、1円はどこでも1円で、皆一緒だから、流動性とそれに伴う決済がこれほど容易なものはない。

価格の上がるか下がるかという2次元的なトレードに、オプションが導入されたことで加わったのがボラティリティだった。私は、マーケットにボラティリティという新たなディメンションを加えたことは、3次元のトレードを可能にしたという意味で、通貨オプションは非常に意義のあるものだし、ヘッジャーや投資家にとっては有益なものだった、と信じている。

しかし、通貨オプション(90年代の通貨オプションはまだ単純だった)を含めた金融派生商品の開発や取引が急拡大し、リスク管理が複雑になっていった。より複雑なGreeks(グリークス、オプションのリスク指標)の変化やオプションのタームの5年10年20年などの長期化、そして当然ながら、金利デリバティブとの融合、クレジットデリバティブへと急速に拡散してしまった。(大体原発と同じで、人間管理できない物はやってはいけないのである。人間のおごりではなかろうか。)

私は、08年の金融危機を発生させたのは、金融派生商品をプロのみならず、儲かるという理由だけで素人にまで売り込んでしまったのが原因だと思っている。しかも、より長いテナー(行路)で、為替、金利、株の相関まで使ったより複雑な仕組みで、買うオプションは安く、売るオプションは高くするための、複雑なグリークスの変化を持つストラクチャーにするというのが、これら金融商品(金融機関がより儲かるから!ポジション的にも金融機関に絶対的に有利な商品!)の大方のパターンだった。

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長期的な投資でどのようなリスクがあるか全てを精査することは不可能なのだが、金融工学を駆使したバリュー・アット・リスク(VaR)といった分析指標が使用されるようになり、確率的なリスクが見えるようになってしまった。目に見えるようになったので、逆に、数値上のリスクの範囲内であればリスク管理が出来ていると信じ、皆安心して投資するようになってしまった。ロシアンルーレットの世界に皆なんのためらいもなく入ってしまったのだ。(百年に一度の地震も、前日までは誰もそのリスクを価格に反映させない。)

金融危機には、IT技術の発展も加担している。情報の速度や共有化、またトレードの処理能力のスピード化で、投機があまりに身近になり過ぎてしまったということもあるだろう。
情報やトレード処理能力が飛躍的に上がったことで、どんな状況でもリスクヘッジが出来ると間違って理解してしまった。つまり、マーケットのシステムリスクはあり得ないとの断定がされるようになった。(原発も大きな地震や全電力喪失の事態を想定しない。したらビジネスにならないからだ。)

GSで私を雇ってくれたボスだった人が、「アメリカは、金融デリバティブの分野で人的資源や資産をつぎ込み過ぎ、大大大成功を収めてしまった。実務的な仕事でなく、まったく価値を生み出さない金融ゲームでありながら、それこそ年に数億もらえるような商売に成り立ってしまったために、物理学等をやっていた優秀な頭脳が、自然エネルギーなどの革新的な技術に向かわないで、こぞって金融に来てしまった。こういったことが派生商品のリスク管理の分野で、金融機関のリスクマネジメントに過信を生んでしまった」と言っていたが、私もこの見解に対してまったく同感だ。

金融危機を経て、現在はシンプルな株取引(フローでコミッションを取る)などに戻ってきているようであるし、経済成長が見込める新興国市場では、ボトムラインのビジネスに投資をしようなど、徐々に基本に回帰していくのではないか。もう少し長期的なビジネスプランに沿って投資をしていく必要もあると思う。金融は30年前まで戻り、もともとの金融の役割に立ち返ったほうがいいのではないかというのが私の個人的な意見だ。

(中編に続く)

*2011年06月06日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)

【前編】通貨オプションの全盛期を経て
【中編】グローバルファンドからマルチストラテジーファンドへ
【後編】自分の世界観でビジネスがおもしろい

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[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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