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ディーラー烈士伝

「刺激に溢れた黎明期を駆け抜けて」 ― 尾形 美明 氏 [前編]

2010年10月06日(水)

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■山村で育つ

 朝鮮南部で警察官の父と働き者の母との間に生まれた。敗戦によって両親と兄弟3人で命からがら引き揚げてきた。お米を背負わされてぐずつきながらも、両親の異常な雰囲気を感じて、懸命に追いかけて行った4才時のおぼろげな記憶だけが残っている。父の故郷である福岡県と大分県の県境の山村に戻ってからは、一家で懸命に働いた。

当時は子供が家業の手伝いをするのは当り前の時代であった。ましてや農家では子供も欠かせぬ働き手だった。朝、田んぼの畔草を刈ってきて、牛や馬に飼葉を与えてから登校するのは子供の役割だった。春の田植え・秋の稲刈りの農繁期には学校も休みがあった。もちろん、農作業の手伝いのためである。炊事、風呂焚き用の冬休みの薪取りも子供の重要な仕事だった。山道を、薪を背負って歯を食い縛って運んだものだ。

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こういった家事手伝いとその合間を盗んでの遊び、そして片道3キロの徒歩通学のおかげで、自然と体力造りになった。社会に出て仕事をするうえでも、また引退後においても、これまで一度も大病をしたことない健康な身体には大いに感謝している。おかげで毎年のように山登りを楽しむことができ、これまで日本百名山も60余峰を登っている。

勉強は、中学生になって、やればきちんと結果として表れるので、面白くなってきた。中学の卒業式では成績優秀者として表彰され、村の公報にも載った。中でも、英語は得意だった。得意と言っても、井の中の蛙だったかもしれないが、もし英語が好きでなければ、その後の人生は大きく変わっていたことは間違いない。

高校は、越境して大分県中津市の県立中津南高校に入学した。大学進学を目指して勉強していたのだが、家庭の事情で断念した。学校の勧めに従って応募した三井銀行(現三井住友銀行、以下、三井)の採用試験に受かって、若松(現北九州市若松区)支店に勤務することになった。1960年、入社時の初任給は確か9,000円だった。

よく考えもせず銀行員となったが、自分には、銀行員として不適とも言える要素が2つあった。悪筆だったことと普通高校出身で算盤(そろばん)が全くできなかったことだ。このため、集計業務や、預金課でお客さんの通帳に名前を記入したりするときは大変恥ずかしい思いをし、銀行には随分迷惑を掛けた。その後、算盤は何とか習得した。後に外国事務センターや外国資金課、さらにディーラーになってからも、算盤は大いに役立つことになった。

■為替のバックオフィスに配属される

 4年半が経ち、行内の英語の試験を受けることになった。当時、三井では、毎年、希望者を試験選抜して大卒2人と高卒5人程度の合格者に対して、東京四谷にある日米会話学院で半年間、英語の派遣研修を実施していた。私はこの試験に受かり、初めて上京した。好きな英語を半年も勉強できるのは本当に有り難いことだった。

英語研修が終了し、銀行からどこの地域に行きたいか希望をたずねられたので、東京都内の支店で働きたいと申し出た。希望が通って、日本橋三越デパートの前にあった東京支店に配属され預金課や外国課などで2年半ほど勤務した後、本店の外国事務センターに転勤となり、輸入決済を担当した。

その次に、「リコンサイル」といって、三井が海外に保有する外貨口座の出入金のチェック業務を担当した。この仕事は先方から送られてくる伝票の写しと、こちらの元帳の記録をひとつひとつ照合するという、地味ながら神経を使う仕事だったが、後から考えると、海外との決済の仕組みを理解することに役立った。この後、外国部外国資金課に異動させられたのは、この業務を経験していたからではないかと思っている。

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当時、三井の為替ディーリングは伝統的に強いと評されており、ディーラーは後にほとんどが重役に出世するような極めて優秀な人ばかりで、外国資金課への配属はうれしかった。最初は、自分のような人間がなぜこんなところにいるのだろうといぶかしく思ったくらいだ。色々な情報が集中し、その分析などを基にして先輩達が資金繰りを決定し、ディーリングをする姿を間近に見るのは非常に刺激的で、学ばせてもらったことは数え切れないほどある。

自分達事務方は日々のレート表の作成や、支店から報告される為替予約の集計、日銀や大蔵省への報告作成などが主な業務であったが、それを通じて銀行全体の外貨建て資金の運用・調達の姿を俯瞰することができた。次第にこういった環境に大きく触発され、ディーリングをやってみたいと思う気持ちが膨らんでいったのは当然の成り行きだった。

■外銀への転職を決意

 三井には計13年強在職し、73年に米国のケミカル銀行(以下、ケミカル)に移籍した。71年にニクソンショックで変動相場制に移行してから、東京外為市場は急速に変貌しつつあり、ケミカルは私が入行する1年前に東京支店を開設したばかりにも関わらず、初年度から黒字だった。こうした東京市場の急速な発展と、収益環境が外資系金融機関の日本進出を一気に加速させた要因のひとつであったと思う。

転職のきっかけは、外国事務センター時代の上司がケミカルの次長として出向していて、受け入れてくれたからだった。当時の外銀は、邦銀からの出向者が大半を占めていた。なぜかというと、当時の日本人は外資系企業で働くことには極めて消極的だったからだ。そのために、新規に東京支店を開設する外銀は親密な関係の邦銀に主要スタッフの派遣を要請していたのだった。

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自分は外銀という新天地で思いっきり為替ディーリングをやりたいという気持ちに燃えていたが、転職に賛成してくれた人は誰一人としていなかった。70年代は日本経済が急成長していた時期であり、邦銀の評価は高かったので、邦銀の優秀な人材が外銀に転職する事例はまだ非常に少なかった。自分の知る限りでは、坂本軍治さんと酒匂隆雄さんが、私より少し前の時期に横浜銀行から移籍されていたくらいではないだろうか。

私の場合、このような時代的背景がなければ外銀に転職できることはなかったと思っている。80年代になると状況に変化が生じてきて、東大卒で、ハーバードなどでMBAを取得したような優秀な邦銀出身の人材が外銀にヘッドハントされるのが一般的になってくる。

ケミカルのディーリングルームは、私が入社して総勢4名で、為替と円・外貨資金調達に関わる業務の全てをこなしていた。しかも、この頃はディーリング部門とバックオフィスの分離はなされていなかった。そのため、ディーラーが帳簿管理から当局への報告までを担当していた。

日銀口座の管理もディーラーの役目で、この日銀口座の資金ショートを起こすと大変だった。電話で呼びつけられて、担当者と課長に平謝りし、顛末書を提出しなければならなかった。1年に一度くらいの頻度であればこの程度で済んだが、半年間に2回も資金ショートを起こすと、資金課長の顛末書では済まなくなって本店の始末書ということになる。ディーリング部門とバックオフィスの分離は、後に、ドイツの銀行におけるディーラーの不正事件発覚を契機に、どの銀行でも完全分離するようになっていった。

(中編に続く)

*2010年08月19日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)

【前編】外銀にビジネスチャンスあり
【中編】算盤で行ったスワップ取引で大きな利益
【後編】東京市場の黎明期に遭遇できた幸運

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[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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