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「為替も“We”の精神で」―尾崎英外 氏[前編]

2010年04月14日(水)

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■父の夢を託された名前

 僕の名前、英外(ひでと)は、英語を勉強して外国に行けるようにと、親父が名づけた。親父は苦学しながら外国で活躍する夢を抱いていて、戦争のせいで果たせなかったその夢を僕の名前にして託してくれたのだが、僕はアメリカが嫌い(我々の世代に多い)だったから、負担に感じることのほうが多かった。

米国トヨタに赴任する機会がなかったら、「名前負け」を感じ続けたかもしれない。アメリカの素晴らしさに感嘆し、遂には、米国カブレと呼ばれるまでに変身してしまった。奇しくも、親父の夢を叶えることができ、今は心底自分の名前に誇りを持っている。

小学校から高校まで成城学園に通わされたのも、たぶんに親父の意志が働いている。成城学園は、既にあの時代に、小学校から英語の授業を行っていて、非常に先進的かつ自由な校風が特徴だった。おかげで自由闊達に学園生活を送らせてもらった。

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僕は来る人は拒まず主義で、誘われるとついフラフラどこでもついて行く。どこかに美味しいお好み焼き屋がオープンしたと聞きつけると、昼休みに仲間と学校を抜け出そうとして、見張っている先生に捕まったこともあった。

中学校から高校2年までの思い出は、部活のことしか浮かんでこない。勉強なんてまったくせずにバスケットの練習に明け暮れていた。成城学園がインターハイで2位に入賞したときに、優勝チームだった明大中野高校の選手の何人かは64年の東京オリンピックに出場したくらいだから、当時の成城学園のバスケット部は強かった。

担任の河村先生(いつも若山牧水の歌を口ずさんでいた実にユニークな先生)が、3年生の1年間だけは受験勉強に集中して、一橋か慶應を受けたらどうかと強くアドバイスしてくれたので、この2校を意識して受験勉強に励んだ。先生からは、俺は金がないから大学に入ったら飲みに連れて行けと催促され、何度かお返しをさせられた。

一橋に入学したのはよいけれど、遊んでばかり。特に麻雀には並々ならぬ情熱を注いでいた。親父のゴルフに感化されてゴルフ部に入部したが、その実体はほとんど麻雀部の様相を呈していた。練習場に4人集まるとサッサと麻雀だ。最後の方に行くと置いておかれてしまうので、必死になって早く行こうとした。

■トヨタのスピリットに魅かれた

 遊んでばかりいたから、既に社会人になっていた先輩たちから「遊んでいてもよいけれど、人と同じように遊んでいたらダメだ。事務系で技術がない人は知識がすべてだから、必ず自分の時間を見つけて勉強しなくてはいけない」とお説教を食らってしまうこともたびたびだった。うるさいなあ、と思ったこともあったが、先輩の意見は正しかった。会社に
入ってからもその言葉を実感して、常に勉強することを意識してやってきたつもりだ。

就職先は興銀や東京海上が人気だったが、優秀でないと合格できそうになかった。自分は車が好きで、モーターショーなどにもよく行っていたし、これからの日本の産業は自動車が良いのではないかと思って、トヨタ自動車販売(以下、トヨタ自販)と日産自動車を受けることにした。

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60年代半ばは、日本の資本自由化が進展しており、日本の自動車会社が外資の傘下に入れられてしまいそうな状況で、トヨタだけが純粋な国産車のクラウンやコロナなどを製造していたから、トヨタが面白そうだと思った。周囲からは、そんな田舎(当時、トヨタ自販の本社は名古屋市内)に行くの!?と言われたが、自分には希望に満ちた場所のように見えた。

68年4月にトヨタ自販に入社した。82年にトヨタ自動車工業(以下、トヨタ自工)と合併してトヨタ自動車株式会社になってからは、5年間の米国勤務を除くと、ずっと名古屋市と豊田市にある本社に勤務していたから、35年間も愛知県で過ごした。東京で勤務するのは08年に現職に着いて初めてのことになる。

新入社員には、トヨタ自工の工場で1ヶ月間、販売店で4カ月間のセールス実習を行う、約半年間の研修が課せられていた。僕が行かされた横浜トヨペットは、非常に厳しい会社だったので、新人のセールスマンと分け隔てなく同じことを学んだ。当時の新入社員は車を使用できないので、カバンを提げててくてく歩いたりバスに乗ったりして戸別訪問した。

基本的には真面目に外回りしていたが、日焼けするために半日釣りをして真っ黒になったりしたこともあって、今になってみると、申し訳ないことをしたと思っている。

研修が終了し、自分は華々しい宣伝部を希望していたが、一番嫌がられている経理部の資金課へ配属させられ最初は少しがっかりした。当時、外国為替チームを有する事業会社など皆無に近かったが、トヨタ自販は活発に輸出を始めていたので、為替の専任チームがあったのだ。

ドル円が360円の固定相場の為替チームは、海外での代金の回収が重要な仕事だった。手形には輸出保険をつけているのだけれど、それでもお金をうまく入金してもらえないことがあった。中東の銀行などからの手形は、日本の銀行が買い取ってくれないので、ニューヨークの銀行に保証してもらうなどして行った。

予期せぬ為替との出会いだったが、入社から少し経つうちに、段々と仕事が面白くなっていった。

■変動相場に知恵を絞る

 入社した翌年、東京銀行が名古屋で開催した顧客サービスのための講演会に参加することになった。このとき真野さん(後の取締役調査部長)が、日本の経常黒字がだいぶ膨らんでいるので、必ず円の切り上げがあるというようなことを話された。それは説得性に富んでいた。

「じゃあ、輸出企業はどうしたらいいんですか?」と尋ねたら、真野さんは、円高になったら、それに合わせて価格を上げていくしか対応策はないと言う。大変なことになりそうだ。慌ててレポートを作成し、円の切り上げに対する準備をしていたら、71年8月にニクソンショックが起こった。

固定相場制の時代は、先物などというマーケットは必要なかった。従って、当然のことながら、為替の先物予約というものも存在しなかった。円の切上げがあった場合、米国トヨタからどのようにして、できるだけ為替差損を被らないようにして代金を払ってもらえるかひたすら知恵を絞ることになった。

ふと、真野さんが、お金をなるべく前受けのように払ってもらえばいい、と言っていたことを思い出した。リーズ・アンド・ラグスのリーズ(手持ちのドルを少しでも早めに円転する)のような方法だ。外為法で規制が多かったが、決済条件に関しては輸出業者が自由に決めることができ、前受けという形を取ることは、外為法上問題はなかった。

ただ、お金を前受け(現地側は前払い)するには、現地で多額の資金を調達しなくてはならない。しかし、現在と違って、当時のトヨタを、アメリカの銀行は相手にしてくれなくて、どの銀行もお金を貸してくれない。大きなピンチに直面した。

(中編に続く)

*2010年03月15日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)

【前編】円高時代に対抗する
【中編】為替リスクと価格設定
【後編】必死でやれば人は育つ

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[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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