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ディーラー烈士伝

「人づくりとインフラづくり」 ― 藤井和雄 氏 [前編]

2010年03月10日(水)

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■戦争で生きることに精一杯

 小学校1年生のときに太平洋戦争が始まった影響で、父の転職に併せ東京から愛知県豊橋へ、その後疎開で岐阜県、長野県、戻ってまた愛知県豊橋、小坂井へと転々し、小学校だけで6回も変っている。行く先々ではいつもお決まりのいじめに合っていた。集団疎開(学校疎開)ではなかったので、自分ひとりが標的となった。よく喧嘩をしたが、田舎育ちの方が体力で勝り、ときにはグループで向かってこられるから、たいていの場合負けていた。

転校は嫌だったが、わがままが言えない状況は分かっていた。幸いにして登校拒否までいかなかったのは、自分の我慢強い性格に由来すると思うが、どこか鈍感でヌケてるところがあったからだろう。

豊橋にいた小学校4年生のときに、空襲で家財もろとも焼け出された。このときの焼夷弾爆撃は、明らかに民間人の殺傷を狙った残酷なハーグ条約違反だ。攻撃は、まず大きな外輪を描いて落とす。次いで、内輪を次第に小さく幾重にも落としてくる。攻撃はまだ遠くだからと待機していた市の中心部の人々が、大変だと気がついたときには、すでに周囲は火の海で脱出できない状況になっている。

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中心部にいた自分たちも例外ではなかった。父不在の留守家族7人で慌てて逃げ出したまではよかったが、焼夷弾の次々に降る中、主要道は火で塞がれていた。母が突然もうだめだと思ったのだろう、自分はこのまま置いて子供たちだけ逃げるようにと言って座りこんだ。

その付近は僕が遊びまわっていた地域で、間道をよく知っていたことが幸いして、なんとか辛うじて全員火の海から脱出することができたのだった。2日後に全焼した我が家へ戻り、真っ黒になった父と再会した。空腹を抱えていた僕は、まず芋のあった台所辺りを懸命に掘って探したが、残念ながらすべて灰と化していた。

戦中・戦後は誰もが生きることだけで精一杯であった。だから僕は、小学校後半から中学2年ごろまでの教育にはほぼ無縁になってしまった。成人してからもこの頃の基礎教育が、自分には欠けているのではないかと残念に思うことがある。

父はもともと宗教家で、晩年は知恩院の院主を任されたが、戦後10年弱、戦中の戦争教育に携わっていたという理由で、右パージ(公職からの追放)となり仕事に事欠いた。そのせいで、8人の大所帯は、戦後大変な貧乏暮らしを強いられた。

僕はいつも腹を空かせていたから、畑のトマトやきゅうりをたびたび失敬した。とりわけ匍匐前進後進の苦労をして捕獲したスイカの美味は、今でも忘れられない。ただしスイカに関しては1回だけだったが。

■積善の家に余慶あり

 高校2年の2学期にひどい背痛に襲われた。脊柱に小さなひびが見つかり、2年の3学期は全休し、3年生ではコルセット通学した。8時就寝を医者から厳命されてしまったから、まともな受験勉強はできなかった。なので、どうせだめならと、徹底的にヤマを張ることにした。為替操作の基本動作のひとつとして、多数の情報からそのときのポイントとなるものだけ引っ張り出す取捨選択作業がある。ヤマを張るのも似た動作で、いみじくもこのときに練習していたことになる。

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大学受験前日に泊まったお寺の阿弥陀如来に合格を祈願してから、何気なく開いたページの問題をやって寝たら、その問題がそのままそっくり翌日の入試に出題された。他のヤマ張りもそこそこに当たり無事合格した。父が僧侶、寺、阿弥陀如来と並べると、やはり御加護があったのかと思う。「積善の家に余慶あり」− 父に感謝している。

偶然というかツキというか、東京銀行(以下東銀と略称)は、自分の卒業するこの年から指名校の枠を拡げて名古屋大学も入るようになった。昭和32年当時はまだ不況で就職は買手市場だったから、こちらが選べる余裕はない。とにかく試験の早いところから順番にと、三和銀行と東銀を受けた。東銀から合格の連絡をもらい、その旨を大学の事務局に通知したところ、三和からも来ているがまだ返事してないからどちらでもよいと言う。

会社の中身はよく分からなかったが、東銀はなんとなくオープンで自由闊達な雰囲気が 自分に合うような気がしてその場で東銀に決めた。後で長兄から、東銀は円資金調達に弱い。これからはピープルズバンクの三和の方が、成長性があるのではないかと進言されたが、自分で東銀を選択したことに、東銀との縁を感じざるを得ない。

■NYで揉まれる

 58年、東銀名古屋支店に勤務となった。一般的な銀行業務を経て、4年目に為替予約課に配置された。この頃すでに先物だがポンド、ドルスイス、ドルマルクなどのクロスカレンシーの取引を持ち高の範囲内で本支店で行っていた。おそらく他の都銀では考えられなかったことだろう。自分も一人前のつもりでポジションを持ってやっていたが、後から振り返ると何も分かっていなかったようだ。

東銀は海外支店が多い。5年生となり語学留学生の対象年次になって、上からドイツ語を受けるようにと言われた。全く自信ないからと断ったが、業務命令で受けさせられ案の定、最低点で落ちた。

これで海外赴任はダメだと思っていたところ、しばらくしてトレーニーとしてニューヨークへ行くように言われ意外感に驚いた。渡米は63年のケネディ暗殺の直後だった。最初の半年はフィラデルフィアの外銀のトレーニーコースで過ごした。夜バーで飲んでいたら、隣席のアメリカ人から、リメンバーパールハーバー!とやられて慌てて逃げ出した。

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ライシャワー駐日大使の傷害事件のあった頃で、その余波だったかとも思うが、まだそんな雰囲気もしっかりと底流に残っていた時代だった。

横山ニューヨーク支店長(後に頭取)は、非常に洞察力に富み卓見の人で、このとき将来の金融資本自由化に備えてまず為替操作能力を付け、磨く必要があるとして、62年頃から木下課長をヘッドにディーリングを始めさせた。同時にトレーニーを組み入れて鍛え、将来への人材布石とした。同年次から二人が選ばれたが、同期の一人が降りたので途中から自分にお鉢が廻ってきた。これが契機で為替との長い付き合いが始まる。

為替課配属初日、朝のマーケットが始まってしばらくして僕がトイレに行こうとしたら、助川次席から「戦争で弾を打ち合っている最中に お前はトイレするか!すぐに殺されるぞ!持ち場を離れるな!」とやられた。出るものは出てしまうから実に困った。冗談かと振り返れば、彼は真剣に睨む。まさに鬼かと思った。

これはとんでもない所へ来たと思ったが、がんばるより仕方がない。自分の為替入門第一歩は、配置につけば昼までは少なくとも戦争体制となるため、まずは生活習慣を直すことから始まったのだった。

セブン−イレブンの生活サイクルで厳しく鍛えられた3ヶ月ほどは、転校でいじめられたときと同様で出勤が嫌でたまらなかったが、月を経るごとに次第に為替は面白いと思うようになった。

(中編に続く)


*2010年01月22日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/文:香澄ケイト)

【前編】東銀の徹底的な人づくり
【中編】東京市場国際化に注力
【後編】為替に没頭できたことへの誇り

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[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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