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アヴァトレード・ジャパン株式会社 代表取締役社長 丹羽広氏(第2回)
2009年11月09日(月)


■必死の受験勉強
芸大を諦めた高校2年の秋口から勉強の巻き返しをはかりました。本当に必死で勉強をしました。また1番に返り咲かなければいけない、という気持ちです。

しかし長らく勉強をしていなかったので、受験勉強はかなり苦労しました。特に、世界史のように丸暗記を強いられる科目は苦手でした。興味があるから覚えられるのであって、興味がないことは全然覚えないのです。そこで、クラスメートの女性二人に世界史の教科書をカセットテープに朗読してもらい、毎晩毎晩、テープを聞いて頭に入れました。
私は、京都大学法学部を目指し、司法試験に合格して、できれば裁判官になろうと思っていました。裁判官で出世をし、最高裁まで行って、憲法9条に自衛隊は反している、という判決を出したかったのです。今思えば荒唐無稽な考えでした。ただ、残念ながら、共通一次では世界史などの点数が足りず、一次の配点が大きい法学部から、二次の配点が大きい経済学部へ方針を転換しました。裁判官になるには転部すればよいと考えたのです。
■塩澤先生との出会い
経済学部の最初の授業は、塩澤由典先生による数学でした。初回の授業は、塩澤先生の意向で学生の自己紹介となりました。驚いたことに私と同じように、共通一次で失敗したから、経済学部をとりあえず受験した、という学生ばかりでした。塩澤先生は、私も含めた、こうした学生達に、これは不幸中の幸いだ、法律なんて勉強しても仕方がない、これを機会に経済学を勉強したほうが面白い、とお話していただきました。それを聞いて、私も、そんなものかと、経済学を勉強し始めました。
塩澤由典先生は、反骨の数学者・経済学者として知られている方で、のちに、複雑系の研究で一世を風靡された方でした。先生が授業で教えていただいたことは、FXや株の相場でいうところのテクニカルに応用できる内容で、こうした学問を学べたことは、非常に良かったと思っています。大学の最初の日に塩澤先生に数学の手ほどきを受けたことは、とても大きかったです。あれがなければ、おそらく普通に法律の事務屋になっていたかもしれません。
■家庭教師で生計を立てる
大学時代は、大学の西側の吉田山というところで、4畳半1間でトイレもシャワーも共用のところに住んでいました。家賃は月1万3,000円で、中国からの留学生がたくさん住んでいました。彼らはマルクス経済学を研究するために京大の大学院に来ているというのですが、なんだか妙な話だなと、当時は思っていました。天安門事件前夜でもあったのです。
大学時代は、家庭教師のアルバイトをいくつもやっていました。金曜の午後、金曜の夜、土曜の昼、夜、日曜の朝、昼と、ずっと神戸方面まで行き、家庭教師をしていました。家庭教師で月に11万くらい稼いでいたと思います。所得が比較的低いということで、大学の授業料や入学料は全て免除されていました。今でもすごく感謝しています。
大学も卒業が近づき、就職先を考えたのですが、やはり給料がいいところがいいな、と考えました。周りの話を聞くと、日本興業銀行というところは、入るのが難しいが、給料が高いらしい、と聞き、チャレンジすることにしました。
日本興業銀行のほかにも、住友銀行や富士銀行も受けました。しかし、日本興業銀行の内定が一番早かったので、そのまま、日本興業銀行に就職することにしました。
■セレブのご子息が同期
日本興業銀行での私の同期には、石原都知事の三男である石原宏高氏や、楽天の三木谷浩史氏がいます。また先輩には元財務大臣の故・中川昭一氏など、いわゆるセレブのご子息が多いと思いました。私みたいな、馬の骨はまず居ません。私は、おそらく何かの手違いで入れてもらったのではないかと思っていました。
そんなこともあり、会社の雰囲気に馴染もうと思っても、なかなかうまく行きません。会社での飲み会に参加するくらいなら、本でも読んでいたほうがマシだ、と思い、飲み会は、できるだけ断っていました。
最初の配属は、大阪支店でした。配属当初、当時の先輩からは、「そのうち京都大学の採用の手伝いをさせられるから、それまでは遊んでいて良い」と言われました。ただ、私自身、遊んでいるのが苦手だったので、言われもしないのに飛び込み営業をしていました。

飛び込み営業を始めたきっかけは、野村證券の三歳年上の方との会話でした。ある仕事場で知り合った先輩が、野村證券では、新入社員は、名刺ができあがったら、1日帰って来なくていいから、どんな零細企業でもいいので、代表取締役社長の名刺をもらってこられる枚数を競い合っている、と聞かされました。私は、その話に感銘を受けてしまいました。当時の私は23歳ぐらいでしたが、自分を歓迎しない人に自分を売り込んで話すチャンスをもらうという苦労は、今の時期にやっておいたほうが将来的にいいだろうと直感したのです。
飛び込み営業を半年くらい続けた後、大阪支店の中で融資の営業へと仕事を変えました。大阪支店には93年3月まで在籍していました。
■精神的にも肉体的にも辛かったMOF担
大阪支店の後は、東京の総合企画部という部署に異動となりました。いわゆるMOF担を擁する組織です。自他共に認めるエリート部署ですが、営業と違い、実績を争う部署ではなく、いかにミスをせずに上司の覚えを良くするかを競うところでした。私は、一人ひとりの出世を目指す茶坊主同士の出世の材料のための仕事を請け負っていました。このため、一部の心ある先輩を除き、心を割って話をすることはできませんでした。
かつては政治の商い、政商とも言えた興銀は、大企業製造業や、インフラ系企業との付き合いが強かったですが、政治経済の既得権益の上に立ち、政治家や官僚、産業界との間で微妙な距離を取りつつも、ぬくぬくとやってきたことによる長年のツケが回って来ていると感じました。
(第3回に続く)
(第1回)優等生が音楽の道を志す
(第2回)音楽から経済・ビジネスの道へ
(第3回)外資系エリートが証券会社の社長へ
(第4回)私のFX道、歩むべき道
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