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ディーラー烈士伝

「ビジネスとしてのディーリングに徹す」―高橋征夫 氏[前編]

2009年10月14日(水)

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■勉強が嫌いな悪ガキ

エンジニアだった親父が、戦争が終わって職を失い、食べ物業だったら親子4人で生活していけるだろう、と和菓子屋を始めたのは僕が小学校低学年の頃だった。エンジニア上がりのせいか、親父は和菓子作りも非常に真面目に取り組んでいた。戦争直後の砂糖不足で人口甘味料の使用が一般的でも、絶対に本物しか使わないという信念を持ち、他人より少しでも良いものを提供しようという気持ちをとても大事にしていた。

そういった親父の信念は僕にも受け継がれたと思っている。40年間の為替人生で、常に、いかにしてクオリティを高めるか、お客さんに誠実であるべきか、そして良い商品を提供できるかということばかりを考えていた。

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子供の頃は勉強も学校も嫌いだった。しかもクラスで一番の悪ガキで、僕と一緒のクラスにはしないで欲しいと、同級生の親が学校に嘆願しに来るくらいだった。とにかく型にはめられることに我慢できなかった。

中学で私立の高槻中学校に入学した。勉強は全然していないといっても、さすがに208人の受験生中205人の合格者の中には入っていた。せめて高校受験があったら多少勉強したかもしれなかったが、中高一貫だったせいで、余計にダレに磨きがかかってしまった。ただ、何人かの先生が「高橋は勉強したら、ようできるようになるのに、なんでせえへんねん」と幾度となく言ってくれていて、僕はそう言われる度に「これはやったらまずいな。やってでけへんかったら余計あかん」と思って一層輪をかけて勉強しなかった。

家業は小学生からあたり前に手伝っていた。高校1年の時に親父が亡くなってからは、毎朝ひと仕事してから登校していたため、遅刻の常習犯で、年間の遅刻数は百回を超えていた。お袋は、父兄参観の時に「遅刻が多いし、学校へ来る気がないのだったら辞めたほうがいいのでないか」と先生から進言されたりした。

■本気になって京大へ

高校を卒業するまで本当に勉強しなかったにも関わらず、大阪大学(阪大)を受験した。友達に「なんで阪大受けんねん」と訊かれて「いや、俺は京大(京都大学)なんか受けて浪人するのは嫌やから」と図々しいことを言っていたが、見事に落っこちて予備校に通うことになった。

予備校に入った時点の成績は1,000人中、700〜800番だったが、予備校の英語の先生が、たまたま高校の恩師(あだ名がモグラ)の友人で、僕のことをモグラから訊いたらしく「モグラは、お前が勉強したら良くできる言うてた。もっと勉強せなあかん」と繰り返し言われている内に、これは一度本気でやらないといけないと思うようになり、先生にこれから一生懸命勉強するから様子を見ていただきたいとお願いした。それから順位がどんどん上がっていって、進学相談の時には、君はどこでも行けるよと言われるようになった。

お墨付きをもらって、今度は京都大学の経済学部一本に的を絞り合格した。しかし、入学しても大学でしたいことは特になかった。学校にはほとんど行っていない。当時は全学連の影響で、よく学校閉鎖などをやっていたが、閉鎖してもらわなくても、こちらはほとんど学校に行かなかったから関係なかった。

ただ、卒業したら伊藤忠でバイヤーをやろうという目標だけは持っていた。叔父が、大阪の船場で小さい繊維会社を経営していた。大阪で繊維会社をやっていると伊藤忠は神様のような存在で、叔父は常々、すごい会社だと口にしていたので、伊藤忠の三文字は僕の頭にしっかりと刷り込まれていた。

■最初から為替をやりたい

4年生の8月に伊藤忠から内定をもらったので、3年生の時から実家の饅頭の材料の仕入れ、製造、販売を独立採算性でさせてもらって貯めた100万円で、8月8日から4ヶ月間海外旅行に出掛けることにした。内定したら1ヶ月に一度会社に出る決まりになっていたので、伊藤忠の人事担当者に許可をもらいに行ったら「それは良いことだ。うちの支店に立ち寄りなさい」と紹介状を書いてくれた。

まずハワイからアメリカ本土へ入り、スペイン、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、ギリシャ、エジプトと世界を見て回った。海外の小さな支店では、人事、財務、経理、総務が一つの管理部門に統合されて財務部出身の人が一人で担当している場合が多かった。食事をごちそうになっていると、財務畑の人からは自然と為替のことが話題にのぼってくる。ヨーロッパでは国ごとに通貨が違っていて、しかもその通貨の値が日ごとに変わる。自分も旅行中だから、実感として伝わってきた。その頃はまだ固定相場制で1ドルが360円で上下0.75%の変動幅しかなかったが、非常に興味深く感じた。もうその時点で為替をやりたいと思った。

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入社前に会社から希望の部門を訊かれた。当時は、輸出入関係の仕事を希望する人がほとんどで、為替をやるとか財務部で仕事をするとか希望する人は余りいなかったが「僕は財務部で為替をやりたいです!」とはっきりと述べたら、希望どおりに配属してくれた。ちょうど1年前に山陽特殊鋼が倒産して、オリンピック不況のまっただ中で、非営業部門である財務部には新人を配属しないことになっていたそうで、特別な配慮だったことを後から知った。
 
66年4月に入社して最初は輸出為替を担当した。僕は残業が嫌いだから、仕事がむちゃくちゃ早い。本来、一月あたり5人で300件ずつ決済するのだが、どうせ後で銀行へ持ち込んで、銀行でもチェックするんだからええかげんでいい、と僕一人で、全体で1ヶ月1,500件の内の半分をやってしまった。もっと、輸出為替のメカニズムやそれに基づく輸出信用状(L/C)といった基本を勉強しなければならないと考えて、5時になるとサッサと仕事を終わらせて帰宅する。飲み会の誘いがあっても、お酒を飲むのが嫌いだから行かない。極めて付き合いが悪いし、生意気ですぐに上の人間に噛み付くので、僕は評判が悪かった。

伊藤忠での輸出為替の経験は、後に銀行に移ってお客さんを持つようになって、お客さんの為替ヘッジに対する考え方が理解できるので、非常に役に立つことになる。

入社2年程したある日、部長が部会の時に、会社を良くするためにどんなことでもいいから気がついたことがあったら自分に提言しに来いと言った。そこで僕は「今のうちの為替課はなっていない。焼き直しの情報ばっかりじゃダメです。生の情報を世界から集めないと立ち遅れます」と意見を述べたら、しばらくして「高橋君、今度為替のほうへ行ってもらうことになったから」と言われた。この時が、40年間におよぶ為替人生の幕開けだった。

(中編に続く)

*2009年8月27日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/構成:香澄ケイト)

【前編】世界旅行で“為替”と出会った
【中編】相場を動かすのは情報だ
【後編】メジャードリスクでディーリングする

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為替ディーラーのご経歴を持つ方々に、ご自身の生き様や相場に対する考え方などをお伺いしていきます。

[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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