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ディーラー烈士伝

「終わりなき“生き残りのディーリング”の追求」 ― 久保田進也 氏 [前編]

2009年09月16日(水)

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■中学でお終いだと思った

最初は都会のお坊ちゃん育ちだったが、6歳から伊豆月ヶ瀬の祖父母の家に預けられて、ランニングシャツ、半ズボン、わらじが定番スタイルとなった。昭和20年に終戦となって、職業軍人だった親父が田舎に戻ってきて、やったこともない農業を始めたので、僕と1歳違いの弟はいつも駆り出されていた。僕は農業自体があまり好きでなかったので、弟が一生懸命大八車を引っ張っている傍らで、ちょっと手を添えて手伝っているようなフリをしていたこともあった。

この時代、田舎では子供は労働力のひとつで、勉強するより農作業を手伝うのが当たり前だった。牛の鼻先を取って田んぼを均す代搔き、稲刈り、麦踏み、何でもやった。農業だから現金収入はなく、長男の僕を筆頭に子供5人を抱えて生活には不安感が漂っていた。幸いちょうど設立された警察予備隊(現在の自衛隊)に旧軍人の親父は優先的に入隊させてもらい、少しずつ生活にも余裕が出てきたおかげで、僕は高校に進学できた。それまで、自分は中学でお終いだと本気で思っていた。

県立韮山高校は静岡県下でも屈指の進学校で、その中では成績は良い方だったが、大学受験に失敗して初めて東京の人たちの実力に気が付いた。予備校へ行ってようやく皆に追いつき、早稲田大学に受かることができた。商学部を選んだのは、弟の方が物理や化学の成績が良かったので、僕は絶対に理科系には行きたくないと思ったからだ。そんな程度の理由だったので、商学部に決めたといっても特に将来に夢や希望があるわけではなかった。

■伊藤忠の荒っぽさに魅かれる

しかし、入学して同級生と話す内に外国が面白そうだと思うようになった。商社マンになれば、自分も海外に行けるチャンスがあるかもしれない。商業英語や英会話を勉強する「商業英語研究会」というサークルに入り、東京の中にいくつかあった米軍住宅エリアのひとつ、成増のグラント・ハイツのアメリカ人の奥さん達にボランティアで英会話を教えてもらったり、大学3年の夏休みの1ヶ月間、親父の知り合いの米海軍大佐のお宅に伺って、ご家族と雑談して夜になると食事を一緒にしたり映画に連れていってもらったりした。この家で初めて飲んだコカコーラの味にも衝撃を受けた。日本の生活レベルとは格段に違うアメリカの豊かさに触れ、ますます外国への憧れを強くした。

大学時代に後に商学部部長もされた田中喜助先生という恩師に出会っている。先生の、国際貿易論、国際金融論を兼ねたとても厳しいゼミナールで勉強できるのはわずか4名の生徒だけで、ここに入れてもらったことが大きく自分を変えた。勉強自体が非常に厳しかったことに加え、先生の人柄も素晴らしく、今も自分のひとつの財産として残っている。

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就職は商社以外考えられなかった。自分が望んでいたのは、三菱商事のようなスマート過ぎるイメージの会社ではなく、もっと泥臭く、組織で動くよりも直接仕事を任せてくれるような商社だったから、三井物産や伊藤忠商事の荒っぽさや将来性みたいな部分に惹かれた。前年まで就職活動は10月1日まで解禁されず、しかも1社しか受けられないことになっていたが、僕らの年には自由になり、たまたま、伊藤忠の面接の方が早くて6月には内定してしまった。

61年4月伊藤忠商事に入社し、人員80名ほどの財務部に配属された。当時、商社では営業部に憧れる人が大半だった。伊藤忠は当時から繊維が日本でNo.1だったので、繊維部志望者も多かった。その中で、僕のように国際貿易論や金融論をやっていて、金融方向を望む人は珍しかったようで、すぐに財務部に配属され、日本から輸出する鉄鋼などの書類関係を扱う輸出為替を担当させられた。輸出信用状(Letter of Credit=L/C)をチェックして営業課に渡す仕事や輸出認証(Export Declaration=E/D)といって、輸出する時に決済条件をチェックして銀行にハンコを押してもらったりするような仕事が主な内容だった。財務部には、輸入為替課もあったし、ディーリングセクションの前身である為替予約課もあったが、アメリカに行くまで5年間輸出為替をやっていた。

■為替の中心ニューヨークに赴任

日本経済の急成長によって輸出入が増大し、それに伴って仕事がどんどん増えていった時代だったから、面白いという実感はあるのだけれど、輸出為替の仕事が自分に合っているとかこれを一生続けたいという気持ちにまでは至らなかった。既に社内の海外渡航者適格試験はパスしていたが、どこへいつ行けるのかは前任者の帰ってくるタイミング次第で、ジリジリとそのチャンスを待っていた。
 
66年、念願の海外であるニューヨークに赴任した。最初は、アメリカから輸出する穀物などの船積み書類を作って手形を付けて、銀行で現金化するという輸出為替をやっていた。しかし、67年11月のポンド切り下げで1ポンド=2.8ドルが2.4ドルに下落したのを契機に、IMF平価で1ドル=360円で固定されていたドル円に変化の兆しが感じられるようになってきたことから、会社は為替の専門家を創る必要性を感じ、その要員を育てる決断をした。

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ただ為替の先物予約をするだけの時代から、ディーリングも含めた新しい時代の為替要員第一号として僕にその新しい役目が回ってきた。しかし、僕自身が全然そのつもりはなかったし勉強もしてないから、今日からお前が担当だと言われても、戸惑うばかりだったが、まずニューヨーク市場の引け値を取ってテレックスで送り始めた。当時、時事ファックスという情報システムがあったが、その中にきちんとしたニューヨークの引値が出ていなかったからだ。

その後も本社は、お前はアメリカにいるんだから、もうアメリカのこと全部分かっているだろう、という前提で情報を請求してくる。できないなんて言ったら、お前馬鹿か、と言われるのも悔しい。だから、もうひたすら東銀、シティバンク、チェース、ケミカルといった銀行、証券会社、投資銀行などあちこちで情報収集に努めている内に自分自身も為替が面白くなってきた。為替は、政治、経済、社会現象といったありとあらゆることが要因となる。そういった奥深さ、自分が関心を向けなくてはいけない範囲の広さ、そして、その中から必要なものだけを拾い出してきて、考えていくというプロセスは本当に面白いと思った。

しかし、その一方で僕が間違った情報を与えてしまうと会社全体が間違えてしまうことになるので、常に情報収集にはものすごい緊張感があった。その最たるものが71年8月15日に起こったニクソンショックだった。

(中編に続く)

*2009年7月30日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/構成:香澄ケイト)

【前編】自由なディーリング時代の幕開
【中編】本当の戦いが始まった
【後編】為替は自分を磨き上げてくれた

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プロフィール

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為替ディーラーのご経歴を持つ方々に、ご自身の生き様や相場に対する考え方などをお伺いしていきます。

[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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