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ディーラー烈士伝

「為替との巡り合せは大きな財産」 ― 大倉孝 氏 [前編]

2009年08月19日(水)

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■家族会議でアメリカに飛ばされる

姉が二人で末子長男、しかも未熟児で生まれ、幼少時は虚弱体質だったのでとても大事にされて育てられた。夏は逗子、冬は湯河原に祖父と共に長逗留して水泳の特訓で鍛えられた。おかげで、中学・高校とバスケットボールでレギュラーになるほどの健康体となり、為替ディーラーに必要な「体力」のベースを作ってもらったと祖父には大変感謝している。

僕が高校2年生の時に東大の入試が中止になったりして世の中が滅茶苦茶だった。学園紛争が高校にまで拡大し学校閉鎖や卒業式のボイコットが起こった。そんな時によく学校を抜け出して麻雀をしたりしていたので、僕は3年生の3分の1は学校へ行っていない。これでは到底大学に受かることはできず、浪人して予備校に通いながら、板前になろうと思って両親には黙って割烹料理屋でバイトをしていた時期もあった。

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当時の日本は学生運動に象徴されるように大きく変貌しようともがいていて、後から考えればそれが逆にチャンスになった時代でもあったのだが、その時は自分の前を歩いている人達に荒らされる被害者のように感じていて、僕はとてもすさんだ生活をしていた。そんな状態をたまたまその割烹料理屋に食事に来た一番上の姉貴に見つかってしまい、家族会議にかけられて、水商売をするにしてもとにかく一回アメリカを見てきなさいということで、僕はアメリカに飛ばされることになる。

一番上の姉貴が外国航空会社のスチュワーデスだったので、家には外国人の訪問客が多く、渡航先にアメリカを選ぶのはごく自然だった。全然魅力を感じないような時代だったし、仮に大学に入れたとしてもいつになったら勉強する環境が戻ってくるのか分からない。この閉塞感から脱出するにはアメリカに行くしか方法がないように思えた。

2年間の浪人生活を経て73年7月、20歳で渡米した。学校の授業で一番苦手だったのが英語だったから3カ月間英語学校に通った後、一学期間の学費がUCLAよりも300ドル安い3,000ドルだったので、カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校に決めた。TOEFLのスコアは低かったが、学長に直接会って入学の交渉もした。もう一人でなんでもやらなければ野垂れ死にするか帰国するしかないが、おいそれと帰れるはずもない。大学が発行してくれたI−20(アメリカでの留学生としての在留資格を証明する非移民用書類)を持って移民局に行き、観光ビザを学生ビザに代えてもらい晴れてアメリカの大学入学となった。

■日本人ビジネスマンに触発される

大学では最初ジャーナリズムを専攻したが、最終的に統計学を学ぶことにした。アメリカは日本のような学生運動は全くないし、とにかく豊かでまだ良きアメリカが存在していてそれなりに楽しく生活していたが、2年間後にロングビーチ校に転校することになった。僕はよく病気になったふりしてお金を送ってもらっていたので、両親は一体僕がどんな生活を送っているのか不審に思っていたらしく、スチュワーデスの姉貴が結婚した相手の駐在でロサンジェルスに来たのをきっかけに、姉貴のところに行かないと仕送りを止めると言ってきた。

渋々といった感じで居候生活を始めたが、いい加減な気持ちでアメリカに来た僕に心境の変化をもたらしてくれたのは、船会社に勤める義理の兄貴のところに来る様々な日本人ビジネスマンだった。日本が苦しんでいる時代に海外で一生懸命がんばる彼らと直接触れ合う内に、僕の心の中にビジネスの世界は面白そうだという気持ちが芽生えてきていた。

卒業してアメリカで就職する方法もあったが、とにかく一度日本に帰りたかった(4年間一度も帰らなかった!)ので、77年の9月に帰国した。友人から10月1日からの会社訪問解禁までは就職活動をしてはいけない決まりがあると教えられ、あらゆるコネを総動員したが、日本の大学を出ていない人間には就職のチャンスは皆無に等しかった。

商社も考えたがそこの人事部長に大変な苦労するから止めた方がよいと諭され、仕方がなかったので、リクルートの会社案内に載っていたバンク・オブ・アメリカ(BOA)東京支店を訪ねた。僕はカリフォルニアにいたから、銀行といえばBOAしか知らなかった。試験に受かり、既に卒業していた僕だけ例外的に12月1日入社した。初任給は14万円でボーナスは1年で6.6ヶ月出たが、邦銀より多少良かったくらいだ。後になって分かったことだが、シティ、チェース、BOAの米系3行は、邦銀以外で外為市場委員会の委員が順番に選出されるなど、外銀の中でも特別だった。だから、未だこの3行のOBの方たちの結束は固い。また、この3行は他の外銀と比べて、新卒を定期的に採用していたし、内部の研修制度もしっかりしていた。今でもこの時のBOAには感謝している。

■ディーラーで勝負したい!

入社して最初の11カ月間、OJTで全部の部署(銀行業務)を回った後、自分が勝負できる仕事はディーラーしかない!と確信したので、ディーラーをやりたい意思を会社に伝えた。僕の長かったモラトリアム時代が終焉したと同時に、とてつもなく大きな為替という世界のほんの入り口に立ったのだった。

ちょうどこの頃から東京市場をロンドンやニューヨークのような国際市場にしようという官民の共通した思惑で規制緩和が進行し、法的な改正では82年の実需原則撤廃などで、為替取引は原則自由になっていく。ディーリングルーム、つまりBOAの中でも重要な位置を占める為替資金証券部には、ディーラーが4人いて僕は新卒では2人目の採用なのだが、僕らの前の先輩とはなんと20歳ほどの年齢差があった。

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ディーリングルームに配属された1ヶ月後の78年11月1日にカーターがスワップ協定を結ぶということで、ドル安に対して手を打ったカーターショックに遭遇した。夜10時過ぎ急にロイターがチンチンチンと鳴って、ドル円のプライスが180円から190円へ10円開きになり、急に全てレートが無くなってしまった。初めて為替のすさまじい動きを目の当たりにさせられたという意味でも、自分の心に残る大きな出来事だった。

最初は、為替というよりも円の短期資金取引が中心の資金取引をやることになった。円の調達をして資金が余ったら運用をする。外国為替市場と短期金融市場は密接に関わりあっていて、短期金融市場があってはじめて為替レートを決めることができる。言い換えると無尽蔵ともいえる資金供給が可能な短期金融市場が背景になっているからこそ、外国為替市場が成立している。外貨を調達するということは実は自国通貨が資金運用の側面を持っていることになる。

「ドルを買った」ということは「円を売った」ということになり、ドルと円は各々単独の通貨として資金取引の対象となる。ここに、日本の金利がゼロという状況では、ドルを持ち越せばドルの短期資金金利が加わることになる。だから基本として短期資金取引の資金取引を学び、本来は金利とは何ぞやといったようなことを最初に叩き込まれてから為替に移っていくのが順序で、直ぐに為替に来てしまい為替は売りと買いしかしかないと思っているのであれば、為替取引の機能を十分に理解することはできない。

(中編に続く)

*2009年7月7日の取材に基づいて記事を構成
 (取材/構成:香澄ケイト)

【前編】人生で勝負できる仕事
【中編】好きだから苦にならず
【後編】丁々発止と為替をやってきた

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>>「The FxACE(ザ・フェイス)」インタビューラインアップへ





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TheFxACE(ザ・フェイス)企画チーム / TheFxACE

為替ディーラーのご経歴を持つ方々に、ご自身の生き様や相場に対する考え方などをお伺いしていきます。

[取材/文]
香澄ケイト(かすみ・けいと)/外為ジャーナリスト

米国カリフォルニア州の大学、バヌアツ、バーレーン、ロンドンでの仕事を経て、帰国後、外資系証券会社で日本株/アジア株の金融法人向け営業、英国系投資顧問会社でオルタナティブ投資の金融法人向けマーケティングに従事。退職後、株の世界から一転して為替証拠金取引に関する活動を開始し、為替サイトなどでの執筆の他にラジオ日経への出演およびセミナー等の講師も努める。

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